1996年4月12日、橋本龍太郎首相(当時)が読み上げた一枚の手書きメモには、こう記されていた。

「普天間飛行場は今後5ないし7年以内に全面返還される」

この言葉による波紋は少なからず広がったが、結果的に30年が経った現在も普天間基地は市街地の中心に在り続けている。基地返還をめぐる交渉の現場で何があったのか。実務を担った元外務省幹部が、その内幕を語った。

米兵による少女暴行事件が起点に

1995年9月、沖縄で米兵3人による少女暴行事件が起きた。怒りは瞬く間に島全体を覆い、同年10月に開かれた沖縄県民総決起大会には8万5000人が集結した。

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この事件を1つのきっかけに、日米両政府は沖縄の基地問題を包括的に協議する場として「SACO(Special Action Committee on Okinawa:沖縄に関する特別行動委員会)」を設置。当時、外務省北米局審議官として返還交渉の実務を担ったのが、田中均さんだ。

「基地の縮小、あるいは基地の返還が課題になっていたわけです」と田中さんは振り返る。

少女暴行事件の余波について米国防省は、沖縄の民意が爆発すれば日米安全保障条約そのものが揺らぎかねないと危機感を持っており、極東における前方展開戦略に影響が出ることを懸念していた。

普天間基地については、以前から日米間での返還が模索されていた懸念材料だったこともあり、田中さんはこのタイミングが返還交渉を一気に推し進める好機だと判断していた。

橋本総理の唐突な提案

SACOが発足して3か月後の1996年1月、田中さんは橋本総理から思わぬ相談を受けた。

サンタモニカで予定されていた日米首脳会談の場で、クリントン大統領に普天間基地の返還を提起したいという。

田中さんは反対した。外務・防衛当局間で一度も事務的な協議を経ていない案件を、首脳レベルで突然持ち出すことは、日米安保の信頼関係を損なうと判断したからだ。

橋本総理は一旦は説得に応じたものの、首脳会談当日クリントン大統領から「沖縄問題で何が最も重要か」と問われ、「普天間基地の返還だと思う。ただ、難しいでしょうね」と応じた。その言葉がワシントンに伝わり、田中さんは米側の実務担当者だったカート・キャンベル国防次官補に詰め寄られたという。

「『日本側はどういう意識なんだ』『(橋本総理が)返還は無理だけど一番大事だと思っていると言ったのか、本当に返還を求められたと解釈すればいいのか』という事を聞かれて、僕は『本当に返還を求めるという事で(総理は)言った』と」

急きょ作成した手書きメモ

1996年4月12日。サンタモニカ会談からおよそ2か月後、橋本総理とモンデール駐日大使の共同記者会見が開かれることが、ほぼ当日に決まった。

田中さんはその場で発表文の作成を急きょ命じられ、手書きのメモを総理に手渡した。そこには「普天間飛行場は今後5年ないし、7年以内に全面返還される事になります」とあった。

この発表は国内外関係各所に衝撃を与えたが、すぐに暗礁に乗り上げた。

「返還」ではなく「移設」だった

田中さんが慎重に見極めていたのは、返還交渉の「条件」だった。

米側が求めたのは、普天間基地が担う軍事機能を沖縄県内の別の場所に移すことを前提とした返還。当初、日本側は普天間の機能を嘉手納基地に統合する案を模索したが、地元の嘉手納町も、米軍も強く反発した。行き詰まったその時、1996年9月にキャンベル氏から突然浮上したのが「SEA-BASED FACILITY(海上施設)」という構想だった。

防衛庁の元高官・秋山昌廣さんはかつて沖縄テレビの取材に対して「突然、海上施設という話がキャンベル国防次官補代理から来た。何だこれはと思った」と証言している。

海上に浮かぶヘリポートのような施設であれば、騒音や地元への被害を最小限に抑えられると考え、日本政府内でも現実的な落としどころとして受け止められていたという。

1996年12月に公表されたSACO最終報告では、代替施設の移設先として沖縄本島東海岸沖が明記された。現在の辺野古移設計画へとつながる原案だった。

30年後の後悔

返還合意から30年。移設計画は停滞と変更を繰り返して現行のV字型滑走路案に行き着いた。田中さんは交渉を振り返り、自らの判断への後悔をにじませる。

「ものすごく残念で忸怩たるところがありますよ。代替基地なく単に返還という事であれば良かったなと」

危険除去の「唯一の解決策」として、政府は辺野古移設を強権的に押し進めている。工事は2030年代までかかると見込まれていて、その間の危険性は放置されたままだ。

沖縄テレビ

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