東日本大震災から15年となった2026年3月11日。死者・行方不明者合わせて2万2336人(2026年3月1日時点)という未曾有の大災害となったあの日から、被災地は長い復興の道のりを歩んできました。

当時、最大14.8メートルの津波に襲われ、人口約1万人に対し827人が犠牲となり、町の約9割にあたる3934棟の建物が被害を受けた宮城県女川町。この鎮魂の祈りに包まれる日に、能登半島地震で被災した石川県輪島市の臨時災害放送局「まちのラジオ」の3人が訪れました。

代表の山下祐介さん、妻でパーソナリティーの桂子さん、そしてパーソナリティーの本谷悠樹さん。彼らはなぜこの地を訪れ、15年の歳月を経た被災地で何を感じ、能登の未来をどう描くのでしょうか。現地でお話を伺いました。
この15年、どう歩んできたのかを、実際にこの目で見て

――本日はお忙しい中ありがとうございます。まず、代表の山下さんにお伺いします。震災から15年という節目である今日、女川町に足を運ばれた理由は何だったのでしょうか。

山下祐介さん(以下、山下):
我々は昨年7月に「まちのラジオ」を開局したのですが、技術も知識もない中でラジオのノウハウを教えていただいたのが、東日本大震災の発災後、この女川町で臨時災害放送局「女川さいがいFM」を開局していた皆さんでした。
その皆さん、そして女川町の皆さんに、我々も無事に開局でき、今こうして地域のために放送ができているという感謝と報告をしにやってきたのが一つです。
それと同時に、発災から15年経ったこの女川町に実際に足を運んで、女川の皆さんがこの15年目をどのように過ごされているのか。そして、我々はまだ3年目、女川の方々が発災から3年目のとき、どのように考えて生活されていたのか。この15年をどう歩んできたのかを、実際にこの目で見て、いろんな話を聞いて、また能登に役立てていきたい。そういう思いで今日この女川町に足を運びました。

――午前中からお世話になった方々を訪ねていらっしゃいましたね。桂子さんにお伺いしたいのですが、15年経った女川の町並みを見て、率直にどう感じましたか。
山下桂子さん(以下、桂子):
女川町は地震と津波で本当に大変な被害があったと思うんですけれども、今、駅、町、そして商店街が復興している様子を見て、とても勇気をいただきました。

――様々な方から言葉をかけられたと思いますが、本谷さん、一番印象的だった言葉は何でしたか?

本谷悠樹さん(以下、本谷):
はい。「一緒に頑張ろうね」って、すごいシンプルな言葉なんですけども、やはり寄り添ってくれて、思ってくれているという心強さがありました。そして、女川町の人たちも復興していく中で、「最初はどんな町になるか分かんなかったけど、自分たちが住みたい町を想像して手探りながら頑張っていった。で、今こう立派な町がある」というお話を聞いて、僕たちも今やっていることがどういうふうにつながるか分からないけれども、やっていることに意味があるし、これからの価値につながっていくんだなということを改めて再認識できました。

「なかったことにしたくない」震災遺構が伝えること
――皆さんは昨日、隣町の石巻市にある震災遺構、大川小学校も訪ねられたそうですね。
8.6メートルの津波が押し寄せ、児童74人と教職員10人が犠牲となった大川小学校。2021年から震災遺構として公開されています。

現地では、語り部を務める大川伝承の会・共同代表の佐藤敏郎さんからお話を聞いたといいます。佐藤さんはこの場所で当時6年生だった次女を亡くし、その記憶をつなぐ活動を続けています。

佐藤さんは「どんな風景があって、どんな日常があって、どんな子どもたちがいたのか。それを忘れない、それを伝える。それが伝われば、あの日に何があったのか、あの日からどんな日々だったのかってのは想像できますよね。それを踏まえてこれからのことをみんなで考える場所になればいいなと思っています」と語ります。

――山下さん、これから能登で復興の道を歩み、伝えていく役割を担う中で、佐藤さんのお話や震災遺構というものに対して、どのように思われましたか。

山下:
はい。昨日佐藤さんもおっしゃっていましたが、まずその震災遺構を残すのか残さないのか、そこからもう丁寧な議論が必要だと。その中で、今我々の住む能登を振り返ってみると、まだ「震災遺構」という言葉もあまり聞かない状況なんです。
ただ、大川小学校を実際に見ましたが、やはり遺構を実際に見ること、そしてそこで人の言葉として伝え聞くこと。そういったことが、今後の防災ですとか、能登で何があって、だからこの後何をしなければいけないのか、ということを本当に身をもって実感できる場所になると思うんですよね。能登ではまだ残す残さないという議論が始まっていないので、どうするのかというところを、これからまずは議論から始めていければなと思っています。
「未来は開ける」女川からのエールを胸に

女川町では、地元の有志の方々が1400枚以上の「幸せの黄色いハンカチ」を駅前に掲げました。一枚一枚に町民からのエールが書かれており、その中には能登の皆さんへのメッセージも数多く寄せられていたといいます。

「必ず復興できる。未来は開ける。共に歩もう。」
――こうした力強いメッセージを持ち帰り、これから能登で復興の道を歩むことになると思いますが、改めて、どんな町にしていきたいと思っていらっしゃいますか。

山下:
はい。我々が住む町ですので、まずは自分たちがどういう町にしたいか。やっぱり楽しい町にしたいので、そのためにはどういうものが必要なのか、どうしていきたいのか。そういった話をみんなでやはり話し合って。すべてが叶うわけではないとは思いますが、やはりみんなの意見を出し合って、それを声に出して表明していく。この過程がすごく大事だと思いますので、まずはみんなで住みたい町についてしっかり議論をして、一歩一歩着実に実現できるように歩んでいこうかなと思っています。

東日本大震災から15年の3月11日。被災地の経験は、時を経て、今まさに復興の道を歩み始めた能登半島地震の被災地への道標となり、力強いエールとなって届けられていました。女川で得た学びと勇気を胸に、能登の皆さんの新たな一歩が始まります。
(石川テレビ)
