中村は旧制水戸中学に入学。終戦直後、五・一五事件に関与して服役していたこともある農本主義思想家、橘孝三郎が開いた愛郷塾の塾生として橘と起居を共にし、政治思想に感化された。
その後東京大学に入学するも中退。朝鮮戦争の勃発、終戦直後の日本の政治情勢の混迷から逃れるため南米に渡ることを夢見た。その資金獲得のため窃盗事件を繰り返し服役する。
前科を重ねたことで海外渡航が困難になったことを知るや、国内において積極的な戦争防止のために戦うことを決意したという。
日本は将来、戦前と同じ全体主義が台頭し再び戦争に突入するだろうと妄想し、自ら武装し戦争へと向かう政府を打倒するため武器調達を目指した。
そのための資金を獲得しようと、茨城県の農協や台東区浅草の電話局、世田谷区北沢の信用金庫に忍び込んでは金庫荒らしを繰り返す。

そんな折の1956年11月23日、東京・武蔵野市の市営競技場近くで仮眠中、武蔵野署の山川治男巡査から職務質問を受けた際、警察官に対する潜在的な反感から車の外に出て山川巡査に「拳銃を使ってみろ」と申し向け、拳銃3発を発射。胸に2発を命中させたうえ、仰向けに倒れた山川巡査のこめかみに、とどめの1発を発射して殺害した。
中村はこの罪により無期懲役の判決を受ける。服役は1976年3月まで、およそ20年に及ぶ。出所した時に中村は45歳になっていた。
偽名でアメリカに渡航
この服役後に、北朝鮮拉致被害者奪還のため義勇兵の必要性を痛感。武装化を目指すためアメリカへの渡航を繰り返す。渡航にあたっては「小林照夫」「天野守男」の偽名を使ってパスポートを取得している。
アメリカへの渡航は1986年2月にサンフランシスコに渡ったのを皮切りに、
86年4回(サンフランシスコとロサンゼルス)
87年3回(ロサンゼルス)
88年3回(ロサンゼルス)
89年2回(ロサンゼルス)
90年4回(ロサンゼルス・香港)
91年6回(ロサンゼルス・香港)
92年4回(ロサンゼルス・香港)
93年3回(ロサンゼルス)
94年4回(ロサンゼルス)
95年2回(ロサンゼルス)
96年3回(ロサンゼルス)
97年2回(ロサンゼルス)
98年0回、99年3回(カナダ・バンクーバー)
00年1回(ロサンゼルス)
01年1回(カナダ バンクーバー)
少なくとも15年間に45回、日数にして214日に上っている。
見つかった大量の拳銃
中村に興味を持った捜査一課の原係長が愛知県警に問い合わせると、中村は都内に居住していた可能性があることがわかり更に調べを進めていく。
すると中村の弁護士のところに荷物を送ってきた男Aが協力者であることを突き止める。Aは大阪に住んでいたが、三重県名張市に別宅を持っていて、そこに中村を住まわせていたことが判明した。

協力者Aが、逮捕された中村からの指示で中村が契約していたUFJ銀行玉造支店(大阪市天王寺区)や東京・新宿に所在する貸金庫の鍵などを持っていたことから、2003年7月、UFJ銀行の貸金庫や三重県名張市のAの別宅(中村の居宅)の捜索を行う。

するとUFJの貸金庫からはグロッグ自動式拳銃、スミス&ウエッソン回転式拳銃、スター自動式拳銃及び実包54発が見つかった。さらに名張の居宅からは以下の物が見つかるのである。
・コルト自動式拳銃1丁
・自動式拳銃の実包142発
・フロッピーディスク14枚
・中村の顔写真が貼付された「小林照夫」「天野守男」名義のパスポート
・「BATTERY CHARGER」(バッテリー充電器)本体と約80枚におよぶ輸出伝票
・ロサンゼルス市居住のメキシコ人女性とやり取りした約120通の書簡
家宅捜索に入った捜査員全員が息を呑んだ。
【秘録】警察庁長官銃撃事件50に続く
【執筆:フジテレビ解説委員 上法玄】
1995年3月一連のオウム事件の渦中で起きた警察庁長官銃撃事件は、実行犯が分からないまま2010年に時効を迎えた。
警視庁はその際異例の記者会見を行い「犯行はオウム真理教の信者による組織的なテロリズムである」との所見を示し、これに対しオウムの後継団体は名誉毀損で訴訟を起こした。
東京地裁は警視庁の発表について「無罪推定の原則に反し、我が国の刑事司法制度の信頼を根底から揺るがす」として原告勝訴の判決を下した。
最終的に2014年最高裁で東京都から団体への100万円の支払いを命じる判決が確定している。