現在、世界中にあるプロのオーケストラの中で最高峰に君臨するのが、1842年に生まれたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だ。

彼らはなぜ経営母体を持たないのか。ウィーン・フィルとはいったい、何者なのか。

音楽プロデューサーとしてのかたわら、彼らの公演収録に携わり、ウィーン・フィル楽団員の取材を続けてきた渋谷ゆう子さんの著書『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)より、一部抜粋・再編集して紹介する。

「自営運営」は1842年結成当時から出来ていた 

経営母体を持たない自主運営のオーケストラとして誕生したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。この方式は1842年の結成当時には、すでにその基礎が出来上がっている。

この経営方式こそが彼らの大きな特徴なのだ。

世界のプロオーケストラの運営や経営には、多くの場合、母体となる組織や企業が存在する。国や政府が運営する場合や、企業が経営母体として資金面と事務局の人材面をカバーしている団体が多い。日本のプロオーケストラも同様で、多くは公益社団法人、または公益財団法人として運営されている。

こうした楽団の奏者は、運営を専門組織に任せることで演奏に注力できる一方で、演奏活動の方針が運営母体の意向に沿って決められたり、資金面のサポートが企業の業績に左右されたりなど、音楽の独立性を阻む問題が生じる可能性が高い。また、母体の知名度や社会的認知度が、他企業や個人からのオーケストラへの寄付金の額を左右する。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
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ウィーン・フィルはスポンサー企業としてロレックス一社と契約はしているものの、ロレックスは経営には関与しておらず、公的資金の投入も行なわれていない。完全に独立した団体だ。

この立場を守ることは徹底されており、パンデミック中の活動休止期間でさえも公的支援や助成金、支援金を受け取っていない。

経営母体を持たないため、運営に関わることは全て自分たちの手で行なっている。なんと指揮者の選定からプログラム構成、チケット販売に至るまで、運営に関する全ての決定を奏者が行なっているのだ。

楽団員が自ら運営を担うという体制も、すでに設立当初にその基礎が作られていた。1860年には会員制の定期演奏会の仕組みが整い、収益分配の方法もすでにこの時期に決められていた。

設立以降、ウィーン・フィルはベートーヴェン以来の音楽の伝統を絶やさず後世につないでいくという音楽的理念の継承に加え、その組織の原理も同時に継承し続けている。

ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場

行政や法人傘下でなく、奏者自身の運営により組織の伝統を守る。この運営手法がこれほど長く続いているのは驚くべきことだ。そこには奏者が全員「ウィーン国立歌劇場管弦楽団員」であることが有利に働いている部分はあるだろう。奏者は歌劇場で日々開催されるオペラの演奏で基本収入が確保できるのである。

仮にウィーン・フィルからの収入が全くないとしても、国立歌劇場管弦楽団員として生活していくことができる。奏者にとっては安定した収入があるという精神的な余裕は大きいだろう。

個人の収入の面から言えば、ウィーン・フィルとしての公演のギャラは大きなプラスアルファになる。オペラ演奏で生活のための収入は確保しながら、ウィーン・フィルで演奏することで音楽的欲求を満たし、さらに高いギャラを稼ぐことができる。極めて理にかなった仕組みである。

ウィーン・フィル奏者であれば生徒を持つことも容易く、またその肩書きを使ってアンサンブルを組み、自主的に演奏を企画することもできる。こうした自由で闊達(かったつ)な芸術活動を選択できる運営手法があるからこそ、他者の思惑に左右されることなく、独立性を保ち続けていられるのだ。 

楽団員は民営化された歌劇場に雇用されたオーケストラの一員

「ウィーン・フィルの奏者がウィーン国立歌劇場管弦楽団員である」ということには、もう少し説明が必要になる。国立歌劇場管弦楽団員と聞くと、国家機関の職員、つまり公務員をイメージするかもしれないが、そうではない。

日本では通説として「国立歌劇場奏者である公務員が休暇を申請して、その休日を使ってウィーン・フィルで演奏している」と言われることもあるが、それは誤りである。

第一次世界大戦が終わり、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊、オーストリア共和国が誕生した。この際、宮廷が所有していた財産や建物は国の管理下に置かれることになり、宮廷が所有していた歌劇場はStaatsoper(国立歌劇場)として存続が決まった。戦後しばらくは国の管理のもとで歌劇場が運営されていたが、現在はオーストリア政府が100%出資する有限会社Bundestheater–Holdingが運営している。

つまり国立歌劇場は国の管理下で民営化された組織であり、楽団員を含めた組織員は公務員ではなく、民営化された歌劇場に雇用されたオーケストラの一員、ということになる。

ただし、このことが法的に裏付けられたのは1999年のこと。第一次世界大戦後の混乱の中で文化施設の法整備が後回しになったのか、歌劇場の運営が先行し、法律を含む体制の整備は後を追う形となった。その後、表出した運営上の問題を解決するために、国が株主の法人を作って運営を民間に任せた。 

こうした経緯から、1999年以前に採用された奏者の中には公務員と同程度の待遇や給与体系を持つ奏者がいることも事実である。この「公務員と同程度の待遇」が日本に間違った伝わり方をした結果、「ウィーン・フィル奏者公務員説」に繋がったのではないかと考えられる。

仮に奏者が公務員であれば、外国人採用は叶わなかっただろう。国立歌劇場という名前は残ったが、民営化されて自由な身分が与えられ、副業的な演奏活動が可能になっただけでなく、他国の奏者にも門戸が広がったのだ。 

こうした体制下で、ウィーン・フィルと国立歌劇場は協力して双方の運営を成り立たせている。奏者にはオペラ演奏に支障のないよう配慮が求められるが、ウィーン・フィルとしてのコンサート活動は綿密に計画され、運営されている。

また、運営幹部である楽団長や事務局長は業務に時間を取られることを考慮し、歌劇場への出演の調整がなされるなど、国立歌劇場によるウィーン・フィルの活動への配慮も行なわれている。

『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)
『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)

渋谷ゆう子 
音楽プロデューサー、文筆家。株式会社ノモス代表取締役として、海外オーケストラをはじめとするクラシック音楽の音源制作やコンサート企画運営を展開。また演奏家支援セミナーやオーディオメーカーのコンサルティングを行う一方、ウィーン・フィルなどに密着し取材を続けている 

渋谷ゆう子
渋谷ゆう子

音楽プロデューサー、文筆家。株式会社ノモス代表取締役として、海外オーケストラをはじめとするクラシック音楽の音源制作やコンサート企画運営を展開。また演奏家支援セミナーやオーディオメーカーのコンサルティングを行う一方、ウィーン・フィルなどに密着し取材を続けている