「虎さん」の愛称で親しまれた片山虎之助元参議院自民党幹事長が亡くなった。

記者の間では「虎ちゃん」だった気がする。20年以上前に番記者として日夜取材し、彼の豪快かつ繊細な人柄に触れたことは良い思い出でもあり、今も有形無形の糧になっている。

誰もが怒鳴られ怒られる

通夜が営まれた12月23日夜、かつての党職員が会場でビールを片手に「あの人が国会対策委員長になって、俺の髪は真っ白になった」と静かにつぶやいた。

とにかく誰もが怒鳴られ、怒られた。秘書や党職員はもちろん、官僚、記者、ドライバー、SPも。

番記者は「怒鳴られてようやく一人前」などとよく言われた
番記者は「怒鳴られてようやく一人前」などとよく言われた
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国会対策は野党との調整役だが、調整とはほど遠かったと思う。酒の肴は「私はこんな状況で怒られた」ばかりである。番記者は「怒鳴られてようやく一人前」などとよく言われた。

私もよく怒られた。一番怒られたのはある国政選挙の投開票日だ。

各党の幹部がテレビ各社に中継で出演した際、片山氏はフジテレビの中継でほぼ発言する機会がなく終わってしまった。本社で放送を見ながら嫌な予感がしていたが、その後しばらくして選挙番組のプロデューサーに「片山さんが激怒している。一緒に来てくれ」と呼ばれて自民党本部に向かった。

 
 

まさに空気が震えるような怒鳴り声が響き続けた。

時間の長さはよく覚えていない。記憶にあるのは申し訳なさでも恐怖でもなく「人はこれほどまでに怒れるのか」という驚きだった。彼の身辺を警護するSPが「これまで見たことのない怒りだった」と言うほどの剣幕であった。

「虎さんらしさ」を感じたのはその翌日である。

会見では笑顔を見せることもあった
会見では笑顔を見せることもあった

私はその夜、片山氏から当面の取材を禁じられる「出入り禁止」を言い渡されていた。とは言え何もしないわけにもいかず、お詫びを兼ねて事務所に伺うと、本人は普通に接してくれた。

「(フジテレビの)幹部と会わせろ」という要望はあったが、取材活動に支障は出なかった。落選した際も、国政に復帰した後も交流は続いたが、出入り禁止は解かれていないままだ。

記者に向き合う姿勢

頻繁にカミナリを落とす一方で、番記者から逃げることは一切なかった。

常に記者と向き合い、質問に答え、時に酒を酌み交わし、よく笑う人でもあった。彼なりのやり方で記者を大事にしていたのだろう。

落選した直後も事務所を片付ける様子を撮影させてもらい、インタビューにも応じてもらった。「姫の虎退治」が大きなうねりとなり、落選の憂き目に遭ったにもかかわらず、自室で質問に答える姿は潔く、寂しさともの哀しさが浮かぶ表情は今も忘れられない。

頭が良すぎるために…

政策面では各種データや数字が全て頭に入っているのか、記者会見などで紙を見ることはほとんどなかった。

その豪腕と圧倒的な知識で政治を進めるのが彼のやり方だった。

青木幹雄氏とタッグを組み参議院の立場を向上させた
青木幹雄氏とタッグを組み参議院の立場を向上させた

先の元職員によると「怒鳴り声を武器にしていた」という。「参議院のドン」と呼ばれた青木幹雄元参議院自民党会長とのタッグで衆議院の干渉を一切受け付けず、参議院の立場を飛躍的に高めたことは間違いない。

秘書は片山氏に渡す資料に不出来な部分、不備を敢えて作っていたという。片山氏に指摘させることで彼のプライドをくすぐり、機嫌を良くさせ、ひいては自分の仕事をやりやすくしていたそうだ。

定期的に発散しないと怒りがマグマのように溜まってしまうため、ガス抜きは必須だったのだろう。青木氏は「片山は頭が良すぎるから、周囲が出来の悪い人ばかりに見えてしまう」と同情混じりに評していた。

そんな片山氏が窮地に陥ったのが郵政民営化法案の採決(2005年)だ。

衆議院は僅差で通過したが、参議院でも自民党の造反が相次ぎ、法案は否決された。反対派の議員に賛成に回るよう説得をしていた片山氏だったが、このときばかりは平素の豪腕ぶりが裏目に出た。

郵政民営化を巡っては窮地に陥ることも
郵政民営化を巡っては窮地に陥ることも

結果的に小泉首相による“郵政解散”(2005年)で自民党が地滑り的な勝利を収め、“小泉劇場”と化したのは皮肉な結果でもある。

「真剣にやれ。でも深刻になるな」

豪快なところばかりが強調されがちな片山氏だが、通夜の晩に長男の大介さんから意外な言葉を聞いた。

片山氏は、小さなことを積み重ねて大きな成果に繋げる「積小為大」という言葉が好きだったという話だった。片山氏の戒名にはそれを表す「積」が入っている。

片山氏の戒名 「虎」は「寅」に。「勢」は片山氏らしさが出ている
片山氏の戒名 「虎」は「寅」に。「勢」は片山氏らしさが出ている

普段のイメージとは裏腹に、人知れず努力していたということだろう。晩年、いくぶん温厚になった片山氏からよく聞いたのは「真剣にやれ。でも深刻になるな」だった。彼なりに悩みながら要職を務めていたことが想像できた。

冒頭の通夜の席。かつての番記者や党職員らでビールをちびちびやりながら、何となく今の政治の話になっていく。「今の永田町には役者がいない」「政治がつまらない」と異口同音に語り合った。

地方から急きょ駆けつけたというかつての番記者が語った「虎さんは所属する政党に関係なく、ものの善悪を判断できる人だった」という言葉が印象に残った。

山崎文博
山崎文博

FNNプロデュース部長 1993年フジテレビジョン入社。95年から報道局社会部司法クラブ・運輸省クラブ、97年から政治部官邸クラブ・平河クラブを経て、2008年から北京支局。2013年帰国して政治部外務省クラブ、政治部デスクを担当。2021年1月より北京支局長に。その後2024年から国際部長を経て現職。入社から28年、記者一筋。小学3年時からラグビーを始め、今もラグビーをこよなく愛し、ラグビー談義になるとしばしば我を忘れることも。