終戦の年の6月19日、米軍機が福岡市の中心部を襲い、1000人を超える犠牲者が出た『福岡大空襲』。実は、その同じ日、福岡の中心部から離れた現、糸島市の雷山地区でも『雷山空襲』と呼ばれる空襲があり、焼夷弾で長閑な農村地帯が焼き払われた。雷山空襲とは、何だったのか。その足跡を追った。

福岡大空襲と同じ日に

緑が溢れる長閑な風景が広がる福岡・糸島市の雷山地区。今から80年前、この静かで平和な地区が、火の海に包まれた。

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福岡大空襲と同じ日に、隊列の数機が糸島市雷山地区にも焼夷弾を落としたのだ。その空襲は、『雷山空襲』と呼ばれ、地区の中でも2つの集落だけが攻撃を受けた。25カ所に及ぶ住宅や学校などが全焼し、子供を含む8人が犠牲となった。

雷山小学校のグラウンドの一角に設置された慰霊碑。当時、ここにあった雷山国民学校の校舎も全焼した。

この日、慰霊碑を訪れたのは、雷山空襲の惨劇を風化させないように活動する『雷山空襲遺跡保存委員会』と『雷山空襲語り継ぐ会』のメンバーたち。

いまだ爪痕が残る現地を案内して回り、この地区であった戦争を伝えている。榊勝さん(84)は、「これは147名の地元の兵士と雷山空襲の犠牲者8名、合わせて155名を合祀したものです」と碑の前に佇む。「慰霊碑というのは、戦争の記憶が詰まっている。どういう人達が、あの慰霊碑の中に合祀されているか。子供たちに説明している」と話す。

今も地区に残る戦争の傷痕

今も地区に残る、戦争の跡。『雷山空襲を語り継ぐ会』の大原輯一さん(80)と吉丸泰生さん(83)に案内してもらった。

雷山の麓にある興福寺の中に残された『首のない』地蔵は、静かに、今も当時の状況を物語る。

「爆風によって地蔵菩薩がバラバラになった。これを復元して今のような形で安置されている。ただ、顔だけは、どうしても破損が酷く復元できなかった」と大原輯一さんは語る。

「首のない地蔵」
「首のない地蔵」

空襲があった際、多くの住民が避難したのは、山の中。今でも防空壕として使われた石室は、当時のままだ。

吉丸泰生さんは、「ここに入っていた時には、もうバチバチと周りの竹が燃え尽きる音が聞こえて、恐ろしい一夜を過ごした。その時、人々は、どんな思いをしておったかたなという、そういったことを、現地で直に体感、空気を感じること。それは大切だと思う」と語った。

『雷山空襲』は誤爆だったのか?

福岡大空襲におけるアメリカ軍の攻撃目標は、現在の福岡市中央区や博多区などだった。しかし、なぜ、市内から離れた場所でも、襲撃が行われたのか…?

実は、この雷山空襲は、アメリカによる“誤爆”ではないかと考えられているのだ。当時、アメリカ軍が残した作戦任務報告書には、こう記されている。

「最大の困難は、事前に伝えられた風向きとは大きく異なる風向きの変化だった。目標への接近中、一部の航空機は『山の背後の影』を『目標後方の湾』と誤認し、レーダーを早めに発射したため、目標到達に至らなかった」。

この日は、「月夜が明るい日だった」とも言われていて、「山の影」と「博多湾」を数機の攻撃機が誤認し、早い段階で爆弾を投下。予想した風向きが大きく違ったため、目標の博多湾より手前に落ちたのではないかと考えられているのだ。空襲直後の福岡市の記録には、現在の糸島市雷山地区や早良区の山側など、目標地点の手前が被害を受けていたことが分かる。

空襲の数年後、アメリカ兵が、榊さんの義理の祖母、コチヨさんの自宅を訪れたという。その時、アメリカ兵が誤爆をほのめかすようなことを話したと、榊さんは、コチヨさんから聞いたという。

「長閑な村に爆弾を落として、大変申し訳ないことをしたと、悲しそうな顔をして帰った。それきり連絡はなかった」とコチヨさんは、話していたという。

家族8人のうち4人を空襲で亡くす

「屋根を破って、直撃で、焼夷弾が落ちたらしい」と空襲の被害を話してくれたのは、『雷山空襲遺跡保存委員会』の山下正二さん(71)。

義理の父である故、山下庫男さん(享年86才)が、当時12歳で空襲に遭ったというのだ。

庫男さんは、家族8人のうち、両親、弟、妹の4人を雷山空襲で亡くした。生前、空襲の話をあまり口にすることはなかったが、戦争の体験を記録した一冊の絵本を残している。

「山の向こうから飛行機が1機飛んでくるのが見えた。機体が大きく見え始めると、突然、ザーという音がして、焼夷弾が火の雨のように降って来た」。

焼夷弾は、山下さんの自宅を直撃した。「父さんたちの部屋は、ゴーゴーと燃える炎に包まれていた。弟のとしみが、炎の中でもがく姿を見た。でも、火の海になった部屋には、一歩も近寄ることができなかった」。

自宅には、全焼した家屋の下から見つけ出されたという遺品が保管されている。「これ弘法大師さん。これが刀、軍刀でしょうね。よくこれも残っていたなと思って。守っていかないといけないなと思う」と山下さんは話す。

山下さんは、戦争のことを考える度に、溢れる思いがあるという。「空襲の話が、詳しい話が聞けなくなった。

早く聞いておけばよかったなと思うけど、詳しい話をなかなか聞いてないから、その辺が残念。平和を願うしかない。戦後80年経っても引きずっているもんね。家族もあるし、みんな兄弟も引きずっている。なかなか元には戻らないね」と山下さんは、苦しそうな面持ちで思いを口にした。

(テレビ西日本)

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