被爆者が高齢化するなか、継承活動に期待がかかる人たちがいます。
それが「胎内被爆者」です。
彼らが伝えたい想いに迫ります。
今年5月、広島市内に集まった人たち…彼らは母親のお腹の中で被爆した「胎内被爆者」です。
【胎内被爆者・三村正弘さん】
「1番若い被爆者ですから被爆者としてやらなければならない活動をやっていきたい」
さかのぼること11年前…
【胎内被爆者・松浦秀人さん】
「被爆者の最年少ですから、共に頑張って被爆者の願い核兵器のない社会・平和な社会をつくるために力を合わせたい」
胎内被爆者が被爆体験を継承し、平和活動を担う必要性があるとして、「原爆胎内被爆者全国連絡会」が結成されました。
【胎内被爆者・岡純児さん】
「この10年、5回入退院を繰り返している。血が止まらないわけですから。
そういう不安を持って被爆者の1人として反戦・反核という立場で運動を続けたい」
【胎内被爆者・寺田美津枝さん】
「私の母は両目を失いました。私が出来ることは母が苦労したことを少しでも皆さんに知ってもらいたい」
「被爆者」と言っても、直接、被爆した記憶はありません。
それでも何十年も胸に秘めた思いを語り始めた瞬間でした。
会では家族の被爆体験や、放射線に対する不安をつづった「手記」などを発行し、継承活動に取り組んできました。
また個人で活動に取り組む人もいます。
二川一彦さん。
【胎内被爆者・二川一彦さん】
「我が家では父と姉が即死ですよね。帰ってこない」
母・広子さんは原爆のことを一切、口にしませんでした。
【胎内被爆者・二川一彦さん】
「食べていく・生きていくために一生懸命だったから、過去のことを母は思わないようにしたと思う。過去のことを振り返ると生きていけないから。原爆の直接被爆の人も、僕みたいな(胎内被爆者)もずっと尾を引いている」
“家族をねじまげた原爆の悲惨さを伝えたい”二川さんは立ち上がりました。
<被爆証言の様子>
「母親は子どもたちみんなに愛情を注いでくれていた」
二川さんは今、機会を見つけては家族の体験を通し、自分の思いを伝え続けています。
【胎内被爆者・二川一彦さん】
「(家族の)話をすることによって原子爆弾・戦争の惨さ・理不尽さ・悲惨さを感じてもらって”それをどうしたらいいのか”考えてもらうきっかけになればと思う」
先月下旬、広島市内に会のメンバーが集まりました。
この日は年に1度、全国の胎内被爆者が集まる「つどい」に向けての話し合いです。
出席者を確認している時、気になることがありました。
<話し合いの様子>
「つえ代わり、倒れたらいけないから彼も入院していたからね。村上さんも倒れた。
熱中症か何かで当日が参加できるか分からない」
厚生労働省によると今年3月末時点で被爆者手帳を取得している胎内被爆者は6403人。
会が発足した11年前と比べ、1000人近く減少しています。
【胎内被爆者・三村正弘さん】
「我々としては今78、79歳のメンバーですから、もう先がない。
一番若い被爆者としても先がないから」
最年少の被爆者にも高齢化の現実が迫っています。
だからこそ今、できることに向き合います。
【胎内被爆者・二川一彦さん】
「そりゃ歳もありますよ。『もう80か、残り少ないな。ちょっと自分のできることやっておこうや』みたいな、広がりが出来ていくことが大切」
8月5日
「胎内被爆者のつどい」には、全国から21人が集まりました。
【福井から参加 胎内被爆者・山岡直文さん】
「やっぱりみんな仲間同じ胎内被爆者。胎内被爆でも放射能の影響がでるか分からない。
それが核兵器の恐ろしさ、1年1年みなさんに会えることだけでも嬉しい」
会の発起人の1人、香川県在住でジャズピアニストの好井敏彦さん。
【胎内被爆者・好井敏彦さん】
「体調はよくないですよ。薬をいっぱい持っています」
体調は優れない。それでも音楽を通して平和への思いを伝えます。
被爆後の惨禍を生き抜いた母に抱かれ育った胎内被爆者。
互いに語り合い、励ましあい、思いを繋いできた彼らには共通の願いがあります。
【胎内被爆者・岡純児さん】
「反核・平和、次の世代に戦争と核のない世界を実現してもらいたいではなく、実現しなくてはいけない」
【胎内被爆者・石井和子さん】
「戦争のない、平和な社会を目指していきたい(原爆を)本当は体験していないが、私たちの生き様で幾分でも伝えられる」
【京都から参加 胎内被爆者・三山正弘さん】
「若い方が大変熱心に盛り上がっている。(被爆者の)平均年齢は86歳、元気がなくなるばかりだから頼もしい。できるだけ彼らとも交流して、まだまだ長い戦いが続くと思うが、一生懸命引き継いでいきたい」
「あの日の記憶が無くても自分たちの形で伝えたい」強い思いを持つ最年少の被爆者たちもまもなく80歳を迎えます。