被爆者の才木幹夫さんにお越しいただきました。
まずは才木さんの活動をまとめたVTRをご覧ください。

才木幹夫さんは中学2年のとき、爆心地から2.2キロ現在の広島市南区段原で被爆しました。

【被爆者・才木幹夫さん】
「靴を履こうと思っていたんです。かがみこんでいたとき」

<原爆投下>

【被爆者・才木幹夫さん】
「真っ白いもう体験したことのない強烈な明るさですね」

本来なら爆心地近くで学徒動員作業にあたる予定でした。

【被爆者・才木幹夫さん】
(爆心地から約800m離れた土橋で)ここで作業するはずだったのが、6日が(急遽)休みで助かった」一方で、作業に出た下級生のほとんどは亡くなりました。

【被爆者・才木幹夫さん】
「本当に紙一重で学年が違っていたかも分からない。
なんで僕が生きてるんだろうと思うことがある。“生きている辛さ”はある」

戦後78年間、“あの日のこと”を語ることはありませんでした。


しかし、ある出来事が才木さんを突き動かします。

【被爆者・才木幹夫さん】
「ロシアによるウクライナ侵攻。核を脅しに戦争をしているのはいけないと思ってこれは(証言を)やらなければならない」

同じ悲劇を繰り返さないために、去年、92歳で語り部となり、自身の体験を伝えています。

【被爆者・才木幹夫さん】
「一日でも長く証言を続けたい」

<おりづるタワー>
『あの日の記憶を繋いでいく』ゲストの被爆者・才木幹夫さん、今回、原爆の絵に初めて取り組まれました。

才木さん、そもそも、なぜ今回、絵を依頼されたのでしょうか。

【被爆者・才木幹夫さん】
そういう制度があるというんで、早速を応募したわけですけれども、やはりいくら語っても、ビジュアルな面で相乗効果がいるんで、たくさん写真とかそういう絵が欲しかったわけですね。可能な限り描いていただいて、まず描いていただいたのが、被爆者が水を欲しがるので、もうこれは一つの大きなこととして、アップにしていこうと。このアップもやっぱり難しいんですね。当時のそういう状況を知らない人たちがどうやって絵で表現するかということは難しいわけです。

Q:手がけるのは令和の高校生、伝える難しさもあったんじゃないでしょうか

【被爆者・才木幹夫さん】
そうですね。例えばこの人たちの親御さんもそうですけど、やはり原爆の恐ろしさというのは、もう本当に地獄の中から這い出してきたような被爆者たちですが、絵は白いシャツに赤い血がついている。そんななま優しいもんじゃないんですよね。もう服引きちぎられてるし、もう白い部分は血とホコリで赤黒くなっていると、そういう状況もいちいち説明しないと実感としてわからないわけですから。

この秋も新たな原爆の絵の制作が始まります。才木さんは次も高校生と二人三脚で新しい作品に取り組まれる予定です。

テレビ新広島
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