戦後80年―つなぐー、太平洋戦争末期に特攻の最前線基地となった鹿児島県の知覧と富山をつなぐ物語を31日と1日の2回にわたってお伝えします。
31日は特攻の真実と向き合う富山市の男性の思いです。
*平和と命の授業 講師 深井宣光さん
「このB29という爆弾をいっぱい積んだ飛行機がこの富山にもやってきました。」
戦後80年の夏休みを前に富山市の小学校で行われた特別授業。
*平和と命の授業 講師 深井宣光さん
「そしてどうなったか『キャー』『いやー、助けてー』」
講師を務めたのは、SDGsや次世代教育の分野で、本の出版やインターネット配信、行政・企業への支援などにも取り組む富山市八尾町の深井宣光さんです。
*講師 富山市八尾町 深井宣光さん
「戦争はすごくダメなこと」
テーマは、戦争から考える「平和と命」。
題材は、教科書には載っていない「特攻隊」です。
*平和と命の授業 講師 深井宣光さん
「開聞岳の右側を知覧から飛び立った特攻隊は、この山を越えたら戻ってくることは決してない、そんな覚悟を持って通り過ぎていった。どんな思いで征かれたのか」
鹿児島県南九州市、知覧。
美しい円錐形の火山、開聞岳を望むこの地に、太平洋戦争末期、陸軍最大の特攻基地、「知覧飛行場」がありました。
爆弾を積んだ飛行機もろとも体当たり―。
必ず死ぬ「必死」の特別攻撃「特攻」。
太平洋戦争で日本が組織的に展開した人類史上類のない作戦です。
連合国の戦艦が迫る沖縄まで600キロ、本土最南端の知覧は、陸軍特攻隊の最前線基地。
ここを飛び立った439人が沖縄の海に消えていきました。
*平和と命の授業 講師 深井宣光さん
「なぜ戦争をするという決断を当時の人たちはしたのか、敵艦に突っ込むっという、そこにどんな真実があったのか、当時。そこに思いを馳せたくて、『実はこうだった』という声が聞けるんじゃないか、そんな思いもあって(知覧に)来ています」
隊員の遺影や遺品などを展示する知覧特攻平和会館。
その理念は、特攻の史実をありのまま、後世に伝えることです。
当時、全国から集まった特攻隊員。
知覧の町には、その霊を慰める石燈籠が数多く建てられています。
陸軍の特攻隊員1036人のうち、富山県出身者は13人です。
富山市出身の枝幹二さんです。
早稲田大学に通う文学青年は志願して特攻隊員になりました。
22歳の6月、知覧から出撃する前の日に書いた辞世の句が残っています。
*枝幹二さんの手記(富山県護国神社 遺芳館 収蔵)
「春風に咲いた櫻の咲くまもあらず唯君のため散るをよろこぶ」
「ホタルになって帰ってくるから」そう言い残して出撃した隊員の逸話から名付けられた特攻隊の資料館があります。
ホタル館 富屋食堂。
当時、軍指定の食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさんです。
知覧基地に来た特攻隊員が出撃するまでの数日間、食事を出したり、身の回りの世話をしたりして隊員たちを支えました。
*トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 館長 鳥濱拳大さん
「卵は大変な貴重品だった」
トメさんのひ孫、鳥濱拳大さんです。
トメさんの意志を受け継ぎ、ホタル館の館長を務めています。
*トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 館長 鳥濱拳大さん
「トメさんは着物を売って、卵を何とか仕入れ、これを作ってあげていた」
トメさんが作っていたという隊員たちの最期の食事「玉子丼」です。
*トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 館長 鳥濱拳大さん
「当時のトメさんが(特攻隊員に)してあげたかった、『腹いっぱい食べて』という思いも、こもっている」
そんなトメさんと隊員たちとのかかわりをうかがい知るホタル館、ここにしかない、特攻の真実です。
*トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 館長 鳥濱拳大さん
「当時の方々も一人の人間だったと感じると、教科書の特攻隊の話や遺書を読んでも、自分たちの今の感覚とは少し違ったり、(軍の)検閲を通っていたりすると、書きたくても書けないこともあった。親に心配をかけたくない思いもあった。最期くらい格好つけて征きたいという思いもあった。その奥にある人を見て感じていただければ」
出撃の2時間前に撮影された写真、子犬を抱いているのは最年少17歳の特攻隊員です。
沖縄戦の特攻で戦死した隊員の平均年齢は21.6歳。
今の高校生や大学生と同じ年代の若者たちでした。
特攻の最前線基地があった知覧から戦後を生きる私たちに投げかけられる永遠の問い。
そこにあるのは、当時も今も変わらない一人の人間の思いです。
特攻隊員からの問い掛けを受け止め、次の世代の「生きる力」につなげたい、それが、深井さんがここ知覧に通う理由です。