80年前の昭和20年、終戦間際の夏に福井県は2度の大きな空襲に見舞われました。日本海側では初の大規模な空襲となった「敦賀空襲」、そして、その1週間後の「福井空襲」です。太平洋戦争で空襲に遭ったのは全国の大都市で、太平洋側が多く狙われる中で、日本海側の福井県は2度も空襲に遭いました。13歳で敦賀空襲を経験した男性は「80年以上経っても苦しみは忘れることができない」と語ります。
「戦後80年」をテーマに開かれた講演会で、敦賀市長谷の戦争体験者、高崎三蔵さん(93)が市民約150人を前にあの日の記憶を語りました。
「戦争は人間としての望みや夢が全くない。本当に。80年以上経っても苦しみは忘れることができない」
80年前の1945年7月12日、敦賀空襲の日-
「みんな電気を消せ、灯を付けるな」
当時13歳だった高崎さんは、敦賀市街地から10キロほど離れた東浦地区横浜で暮らしていました。そしてあの夜、爆撃機B29が焼夷弾を市街地に落とす様子を目の当たりにしました。
「油に火が付いたのが散って、それがありありと見える。横浜からでも。足がガタガタ、体が震えて声が出ない」
敗戦間際のあの日、日本海側の都市で初めて空襲にあったのが敦賀です。なぜ敦賀が真っ先に狙われたのか―
敦賀市立博物館の坂東佳子学芸員は次のようにみています。「戦前から敦賀港は交通の要衝だった。大陸に向かう船がたくさん出ていた。主要都市がどんどん空襲でやられていく中で、太平洋側の軍事物資や軍の組織が敦賀にたくさん移っていった。だから一番最初に狙われたと思う」
敦賀市史によると、当時の人たちには「こんな小さな港町に空襲はないだろう。やられるとしても金沢や高岡、福井の後だろう」という意識があったといいます。
空襲の2時間ほど前には警戒警報が発令されていましたが、いつも通り船を破壊する機雷を海に投下するだけだと思い、市民は軽い気持ちで警備についていたといいます。
敦賀市立博物館・坂東佳子学芸員:
「一般の人たちは、一部の人を除いては軍の組織や物資が来ていることは、軍事機密に関わることなので恐らくはそんなには知らなかったと思う」
しかし―
約100機の米軍の爆撃機B29が焼夷弾を投下。空襲は午後11時ごろから3時間ほど続き、市民100人あまりが犠牲になり、敦賀の市街地は焼け野原と化しました。
終戦直後の市街地を写したパノラマ写真は、空襲の被害を免れた旧大和田銀行の本店、現在の敦賀市立博物館の屋上からアメリカ軍が撮影したものです。坂東学芸員が「この辺から撮っている写真だと思う」とその場所を案内してくれました。
敦賀市や米軍の記録によると、この空襲で市街地の7割から8割が被害を受けたとみられます。
敦賀では7月30日には、艦載機による爆撃で市民15人ほどが犠牲になり、8月8日には
模擬原爆が投下され33人が亡くなりました。
敦賀空襲を経験した高崎さんは4人兄弟の末っ子です。一番上の兄は海軍に所属していてサイパン沖の戦闘で負傷し、帰国後、そのけがが原因となり命を落としました。「戦争は絶対にやってはいけない。こんなもの、勝っても負けても戦争はだめ。大損害。戦争に勝者はいない」
高崎さんは、ロシアのウクライナ侵攻をはじめ、中東やアフリカなど世界中で未だに続く戦争や武力衝突に憤りを感じています。そして、若い世代にこう訴えます。「立派な人間が人を攻めて殺すということは考えらえない。それがまかり通っている世の中があるのが残念。中学生や高校生の若い世代に分かってほしい。これが私の願い」。