戦後80年・記憶の継承です。激戦地となった沖縄に長野県佐久市出身の軍医が最期を迎えた壕があります。軍医は自決する前に「生きて家族のもとへ」と一緒にいた女学生を逃がし結果的に多くの命を救いました。このほど、佐久市が壕を見学できるように整備。信州と沖縄をつなぐ戦争の記憶を継承しようとしています。

■沖縄戦の野戦病院だった「壕」

沖縄本島の南端・糸満市。サトウキビ畑の脇に大きな穴が開いています。ガマ(洞窟)の入口です。

この「糸洲の壕」は80年前、沖縄戦の野戦病院となっていました。

元ボランティアガイド 安里芳子さん:
「地域の家を破壊して、戸板を置いて、負傷兵を寝かせていた。」

案内してくれたのは、壕で看護に当たっていた当時の女学生と親交のあった安里芳子さん(84)です。

■学徒隊の女学生25人を率いた軍医

女学生は学徒隊として動員された25人。

率いていたのは、長野県佐久市出身の小池勇助軍医でした。

アメリカ軍に追い詰められ集団自決が相次ぐ中、小池軍医は女学生に生き抜くよう指示。壕から逃げさせ、そのあと自決しました。

元ボランティアガイド 安里芳子さん:
「軍医の気持ちが、軍隊(軍人)から1人のお医者さんになったんだなと。絶対に生きなさい、生きるんだよ、そしてこの戦争を伝えなさいというのが、小池軍医の使命だったのかなと」

1890(明治23)年、当時の野沢村に生まれた小池勇助軍医。現在の野沢北高校を卒業後、医大に進み、1928(昭和3)年、地元で内科・眼科の医院を開業しました。その後、陸軍の軍医として満州などに出征しました。

戦争末期、1945年3月に始まった沖縄戦。激しい戦闘が繰り広げられました。学生も「学徒隊」として戦場に動員されます。

沖縄県那覇市にあった積徳高等女学校では、負傷兵の治療・看護にあたる訓練が始まり、従軍の意思を示した25人で学徒隊が結成されました。隊の名前は校章からとった「ふじ学徒隊」。年齢は17歳、18歳でした。

隊長は前年に沖縄に配属されていた小池軍医。

野戦病院となっていた壕で治療・看護が始まりました。

「ふじ学徒隊」真喜志光子さん(豊見城市YouTubeより):
「兵隊が寝ていて、家族写真を見ていたり、小さい子供が三輪車に乗っている(写真を)一生懸命見ていたの。いい写真ですね、ってここまで出ているけど言えなかった、かわいそうで」

■「生き残って悲惨な戦争を伝えて」

戦況の悪化とともに軍は南へと撤退。小池軍医と学徒隊も最初の壕から10kmほど南にある「糸洲の壕」に移りました。

「ふじ学徒隊」真喜志光子さん(映画「ふじ学徒隊」より):
「この壕に移動してきてからは、患者も少なくて、みんな疲れていたもんだから黙って、話もしませんでした。その時に隊長さんが来られて、『こんな悲惨な戦況になると思えば、皆さんを預かるんじゃなかった、誠にすまないことをした』」

6月23日、司令官の牛島満中将が自決。沖縄での組織的な戦闘が終了し、学徒隊には解散命令が出されました。

「ふじ学徒隊」が解散したのは戦闘が落ち着いた3日後の26日。小池軍医が最後の訓示をしました。

「必ず生き残って家族のもとに帰りなさい。絶対に死んではならない。悲惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」

“生きて虜囚の辱めを受けず”その考えの下住民を巻き込む集団自決が相次いだ中、小池軍医は3人1組となって、壕から脱出するよう指示。見届けた後、壕の奥で青酸カリを飲み、自決しました。

「ふじ学徒隊」宮城トヨ子さん(映画「ふじ学徒隊」より):
「『必ず家族に会って、第二第三の国民の養成に、生き延びてあたってくれ』とおっしゃったんですよ。その言葉しか頭に残らないで、結婚して子ども出来てからは一生懸命でした」


■「ふじ学徒隊」25人中22人が生還

沖縄戦の死者は20万人以上にのぼり、そのうち、9万4000人が沖縄の住民とされています。動員された生徒・教師は約2000人で、1000人余りが犠牲になりました。

そうした中、ふじ学徒隊の25人は、脱出後、多くが捕虜となり、22人が生還、犠牲者は3人でした。

壕を訪れた糸満市在住の金城邦子さん(76)。母親の識名芳子さんは「ふじ学徒隊」22人の生存者の一人です。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「小池隊長のことは聞いたりしていたんですよ。あのおかげで助かったよというのは。それで私も存在しているのかな」

芳子さんは当時のことは話したがらなかったといいますが、20年ほど前から少しずつ、当時のことを語るようになったといいます。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「手術の時に麻酔もない状態で、負傷したところを膿が入って切断しないといけない時に、のこぎりか何かの音がして、悲鳴が聞こえたりとか。何かしら話したかったのかもしれないですね、生きているうちに」

芳子さんは現在98歳。体調を崩してから施設に入っていて、今は会話も難しい状態です。

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「私も孫がいますので小学生から中学、大学生まで。その子たちもまだここ連れてきたことないので、連れてきて、ここでひいばあちゃんがこういう体験したんだよって家族にも話していきたい」


■全世界へ「戦争はいけない」

小池軍医の兄の孫にあたる小池清志さん(78・佐久市)。遺骨の収集などを通じて元学徒隊員とも交流を持ちました。

小池軍医の兄の孫 小池清志さん:
「最後(自決)は軍人としてのけじめ。しかしさ、勇助じいも生きて、その辺のことをね、語ってくれれば良かったなということもね(思う)」

軍医の生涯と沖縄戦の悲惨さを知った清志さんはあの壕が戦争や命の重みを考えるきっかけの場になればと考えていました。

小池軍医の兄の孫 小池清志さん:
「戦争はいけないぞ。殺し合いはいけないぞ。そういうきっかけを、あそこから全国、全世界へ、広めていくような一つのきっかけになればいいかな」

■「平和学習に活用を」壕を整備

そうした関係者の思いもくんで、長野県佐久市はこのほど糸洲の壕に案内板や階段の手すりなどを設置。1月30日の竣工式には、阿部知事、玉城デニー沖縄県知事も出席しました。

柳田清二佐久市長:
「(若い世代が)ほぼ同じ年齢の女学生に80年前に起きたことを知ってですね、思い深めていただける機会が、長野、沖縄の交流の中で、役割が果たせたらなと整備させていただいた」

玉城デニー沖縄県知事:
「ありがとうございます」

壕は関係者の高齢化もあって手入れされなくなり、安全面などから長く立ち入りができませんでした。そこを佐久市が修学旅行などの平和学習に活用してもらおうと整備したのです。

■「恒久に語り継げる場所に」

佐久市から出席した清志さん。壕の中に入るのはこれが初めてです。

小池軍医の兄の孫 小池清志さん:
「真っ暗ですもんね、こんなところで大変だったでしょうね」

軍医の高校の「後輩」も出席

野沢北高校生徒会長 永井柊さん:
「話を聞いているだけでは分からない環境だったり状況が伝わってきた。今後、戦争が起こらないように、自分たちで何かできることを模索するための学習の場として活用していけたら」

竣工式に、生き延びた「ふじ学徒隊員」の姿はありませんでした。多くが亡くなり、存命している人は会話や外出が難しい状況です。

戦後80年。関係者はこの壕にまつわる記憶が訪ねた人たちによって継承されていくことを強く願っています。

小池軍医の兄の孫 小池清志さん:
「真っ暗な中でみんなが苦労して、その中で、生きるという明るい希望を持った光がここから出ていったんだなと。勇助じいの考えは、今になると間違ってなかったよと」

「ふじ学徒隊」の娘 金城邦子さん:
「この残酷な戦争が二度と起こらないようにという思いを込めて語って帰したっていうのはね、本当に心に来ますね。恒久に、永久に語り継げる場所になって、これから活躍していく高校生たち、未来を担う子どもたちが本当に世界平和のために尽くせたらいいなと思いますね」

長野放送
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