三重県の伊勢神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」は、1300年の歴史があり、20年に1度、8年かけて行われる、壮大な行事です。2025年5月2日、その最初の行事、「山口祭」が行われ2033年の「遷御(せんぎょ)の儀」で集大成を迎えます。

式年遷宮は、木材の伐採から建築まですべて一から行い、神様が住む社殿などを新調して引越しするというもので、西暦690年から始まり、長い歴史があります。引っ越し後の古い社殿はその後どうなるのか。

■式年遷宮を終えて…取り壊された社殿の木材の“その後”

伊勢神宮内宮(ないくう)の正殿(しょうでん)は、「唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)」と呼ばれる古代の建築様式で建てられています。

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それまでの社殿は解体されますが、使われていた木は再利用されます。

皇學館(こうがっかん)大学の助教、小林郁さんに、木のその後について聞きました。

皇學館大学の小林郁助教:
そこで終わりではなく、新しく別のものに生まれ変わる。例えば内宮外宮の正殿の棟持柱が宇治橋の鳥居に生まれ変わる。

例えば、正殿を支えていた棟持柱(むなもちばしら)は、20年の役目を終えると内宮の玄関口、宇治橋まで運び、新しく鳥居に姿を変えて参拝者を見守ります。

1974年の映像では、地面に大きな穴が掘られ、職人が鳥居を、慎重かつ大胆な作業で設置している様子が残っていました。

設置された鳥居は、さらに20年を過ごします。

■宇治橋はその後「七里の渡し跡」や「関の追分」へ

宇治橋の鳥居はその後、伊勢神宮を離れ、さらに再利用されます。

皇學館大学の小林郁助教:
宇治橋にある鳥居が次の遷宮で撤下(解体して撤去)されたあとは、例えば関の追分ですとか、桑名の七里の渡しの鳥居に生まれ変わる。

宇治橋の両端にかかる2つの鳥居は、桑名市の「七里の渡し跡」、そして亀山市の「関の追分」にそれぞれ送られ、鳥居としてさらに20年過ごします。ここまでで、60年が過ぎました。

桑名市によりますとさらにその後、木材は災害で被害を受けた神社に送って活用してもらったり、鳥居建て替えの協力者に干支を書いた絵馬をプレゼントしたりして、最後の最後まで、大切に使い続けているということです。

■伊勢神宮の「常若の精神」とSDGsなサイクル

また、小林さんによると、式年遷宮を終えて解体された木材は、江戸時代の庶民に安らぎを与えていたものもあるといいます。三重県四日市市の「日永の追分」です。

皇學館大学の小林郁助教:
東海道と伊勢路が分かれるのが「日永の追分」ですので、重要な分岐点として昔から注目されてきた。

この場所は昔、日永村(ひながむら)と呼ばれていました。また、「追分(おいわけ)」というのは「分かれ道」を意味する言葉です。

まわりの道路はY字型をしていて、名古屋から来た人が右に向かうと京都方面へ続く東海道、左に向かうと伊勢神宮へ続く伊勢街道になる、大きな分かれ道です。

江戸時代の様子が描かれた絵画、歌川広重の「四日市・日永村追分 参宮道」で残っていました。

鳥居の奥へ行くと伊勢街道で、賑わっていた様子がわかります。小林さんによると「お伊勢参り」は当時、人口の6人に1人がしていた記録が残るほど人気だったといいます。

絵の中には、荷物を運んでいる仕事中と思われる人の姿も描かれています。

皇學館大学の小林郁助教:
伊勢神宮へ赴いて神前でご挨拶するのが本分です。ただ、それがしたくてもできない人も。それが金銭的な面だったり、スケジュール的な面もあるんですけれども、そういう方もたくさんいらっしゃったんですよね。そういった方々のために、行きたくても行けないけれども、遠い四日市の日永の追分の地から遥拝(遠くから拝む)することで神様へご挨拶をする。

ここから伊勢神宮へはおよそ70キロあり、歩いて片道3日から4日かかります。

仕事などで東海道を通りすぎ、伊勢神宮へ行けない人のために、地元の協力のもと、神様の玄関口である鳥居や、手や口を清める手水舎(てみずしゃ)が用意され、遠くから拝むことができるようにしたといいます。

2025年5月16日放送

(東海テレビ)

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