雲仙・普賢岳の大火砕流から6月3日で34年が経過した。ふもとの島原市では、大火砕流が発生した時刻にあわせて追悼のサイレンが鳴らされ、遺族などが黙とうを捧げた。

一番忘れられない日で悲しい日

鐘の音が響く中、大火砕流発生時刻である午後4時8分。

午後4時8分に黙とうを捧げた
午後4時8分に黙とうを捧げた
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消防団員の詰め所があった島原市北上木場の農業研修所跡では、消防団員の遺族や関係者など約50人が黙とうした。

亡くなった消防団員 山下日出雄さんの妻・睦江さん
亡くなった消防団員 山下日出雄さんの妻・睦江さん

亡くなった消防団員、山下日出雄さんの妻・睦江さんは「一番忘れられない日でもあり、一番悲しい日でもある。消防団員をはじめ多くの方が亡くなっているので、冥福を祈る日として継承してもらえたらありがたい」と話した。次男の優樹さんにとっては、記憶はあの日で止まったままだという。

3人は行方不明のまま

1991年6月3日に発生した雲仙・普賢岳の大火砕流で、消防団員や報道関係者など43人が犠牲となった。

1991年6月3日に発生した雲仙普賢岳の大火砕流
1991年6月3日に発生した雲仙普賢岳の大火砕流

このうち住民3人は今も行方不明のままだ。妙法寺では読経が行われた。

妙法寺の副住職 吉田恵徳さん
妙法寺の副住職 吉田恵徳さん

吉田恵徳さんは南島原市布津町にある妙法寺の副住職だ。大火砕流の犠牲者の供養のため、15年以上前から当時新聞やテレビの関係者がカメラを構えた「定点」を訪れている。

「定点」を訪れた
「定点」を訪れた

吉田さんは「お寺の関係者の中にも、実は行方不明になっているご夫妻がまだこの地に眠っている」と言い、これからも供養を続けたいと話す。

災害の教訓を伝える必要性

噴火災害の被災者が暮らす島原市の仁田団地には、犠牲者の名前が刻まれた追悼の碑が設けられている。3日の朝は島原市の古川隆三郎市長や関係者など約70人が花を手向け、静かに手を合わせた。

島原市の仁田団地でも追悼
島原市の仁田団地でも追悼

古川市長は「いつまた山は動き出すか分からない。これからの子供たちに災害の教訓を伝えていく必要を感じている」と話す。

地元の高校生が千羽鶴を捧げた
地元の高校生が千羽鶴を捧げた

地元の高校生は、追悼の思いを込めて折った千羽鶴を捧げた。島原中央高校3年の吉田來未さん(吉は土に口)は「犠牲になった方々が安らかになるよう、一つ一つ思いを込めて丁寧に折った」と語った。

2025年6月3日の普賢岳
2025年6月3日の普賢岳

火山学者で「普賢岳のホームドクター」と呼ばれた九州大学名誉教授・太田一也さんも2025年に亡くなった。大火砕流惨事から34年が経ち、当時を知る人が少なくなる中、継承の重要性は一段と高まっている。

(テレビ長崎)

テレビ長崎
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