プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
軟式野球からドラフト外でプロ入りした異色の経歴ながら、通算148勝138セーブをあげた大野豊氏。“7色の変化球”と呼ばれた多彩な球種でバッターを翻弄し、最優秀防御率2回、沢村賞1回、最優秀救援投手1回。広島カープ一筋22年で3度の日本一と5度のリーグ優勝に貢献した“広島カープのレジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
カープ最強投手陣
1980年代前半の広島の投手陣は、大野氏とともに福士敬章氏、山根和夫氏、北別府学氏、川口和久氏、津田恒実氏らが躍動し「投手王国」を築いた。

徳光:
1981年にドラフト1位で同じサウスポーの川口投手が入団しました。
大野:
川口は同じサウスポーでもスタイルが違いました。少々フォアボールを出しても、とにかく後のバッターを抑える。少々投げてもへこたれないスタミナの強さがありましたね。それに、いい男というか、ハンサムですしね(笑)。
徳光:
ハリソン・フォードですもんね(笑)。
大野:
(笑)。
徳光:
北別府さんはそんなにスピードはなかったですけど、やっぱりいい投手でした。

大野:
やっぱりコントロールですね。江夏さんのコントロールも素晴らしかったですけど、僕が歴代見た中で3本の指に入るくらいのコントロールの良さ。トップと言ってもいいかなと思いますね。
徳光:
そうですか。
大野:
僕にとってプラスになったのは、江夏さんという存在ももちろんそうですけど、北別府にしても川口にしても、チーム内に自分が持ってないものを持ってるピッチャーが多かったんですよね。何とか吸収して、自分もそういうものを取り入れたいというのは非常にありましたね。
大野氏の代名詞“7色の変化球”
徳光:
さきほど「江夏の21球」のお話を聞いたときに、衣笠さんが江夏さんのところに行ったという話がありましたけど、大野さんのときもマウンドに来たんですか。
大野:
衣笠さんはよく来ていただきました。「大野、お前は真っすぐが速いんだから、どんどん真っすぐで勝負せえ」と勇気付けというか、そういうことをよく言われました。「はい、分かりました」って答えるんですけど、真っすぐで行ったら打たれるじゃないですか。どうしたらいいのかなみたいな…。
徳光:
なるほど(笑)。

大野:
僕もやっぱり考えましたよ。真っすぐってスピードだけじゃないなって。真っすぐのスピードは必要でしょうけど、結局は真っすぐと変化球のコンビネーションなんですよ。そういうことから、いろんな球種を覚えるようにしましたね。
徳光:
大野さんは「7色の変化球」と呼ばれましたけど、プロに入ったときには、とても7色ではなくて2色くらいしかなかったわけですか。
大野:
真っすぐ、シュート、カーブくらいです。江夏さんと一緒になってからは江夏さん式のスラーブ。江夏さんはカーブって言われたかもしれませんけど、僕はスラーブって言ってました。
その後、いろんなボールを投げました。フォークボールに、あとパームボールも小林誠二や川端順が投げてましたから握りを聞いて自分でアレンジして投げました。オールスターのときに新浦(壽夫)さんに、「チェンジアップはどうやって投げたらいいですか」と聞いたりもしました。
徳光:
ジャイアンツの新浦さんにもですか。
大野:
そうです。そのときに、ボールの抜き方を自分でアレンジしてね。親指の動きを変えてスピードの変化とか落ち具合を見て考える。球種は教わるんだけど、最終的には全部自分でアレンジして、自分に合う握りで変化球を覚えていきましたね。
徳光:
そうなんだ。
うれしかった沢村賞受賞

大野氏はプロ8年目の1984年、先発に転向。24試合に登板して10勝5敗2セーブ、防御率2.94と大活躍。リーグ優勝、日本一の立役者の一人となった。
徳光:
大野さん、8年目にして今度は先発になるわけですよね。
大野:
そうです。これが開幕から9連勝です。開幕して投げて、内容も良く勝てましたのでね。「自分は先発で行けるな」というのはありましたよね。
徳光:
ほんとに見事に先発に切り替わって、4年後の1988年には14完投で13勝7敗、防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞を受賞。これはすごいですね。
大野:
22年間の中で、この年が自分の中では一番やりがいがあるし、内容的にも非常に充実した1年じゃなかったかなと思います。数字で順位付けするタイトルは頑張ればできるけど、沢村賞は第三者から認められないと貰えないじゃないですか。だから、僕はそちらのほうがうれしかったですね。
1球の怖さを思い知らされた1発

徳光:
ちょうどその1988年頃、巨人の槙原(寛己)投手との投げ合いが、ほんとに毎回緊張感があって…。すごかったですね。
大野:
すごかったというか。常に悔しい思いするのは僕でしたけどね。僕が一番悔しいのは、延長で勝呂(壽統)にホームランを打たれた試合ですね。
大野氏がこう語るのは1988年5月28日の巨人戦のことだ。大野氏と槙原氏が一歩も譲らない投手戦を演じ、0対0のまま迎えた延長10回表2アウトから、巨人のルーキー・勝呂氏がバックスクリーンに自身初となるホームランを放ち、1対0で広島が巨人に敗れた試合だ。
大野:
この1点。何で、このバッターがホームランなんだって。結局、1球の怖さ。バットを持ってバッターボックスに入ってる以上、どんなバッターであってもやっぱり舐めちゃいけないなと。ピッチャーでもそうですよ。
徳光:
へぇ。
大野:
僕はピッチャーでもほとんど全力で投げてましたね。やっぱりピッチャーであろうとも抑えにかからなきゃいけないというのは、自分の中ですごくありましたね。
セ・リーグ打者との名勝負
徳光:
大野さんが投げてて印象的なバッターっていうと、どんな人がいますか。
大野:
投げてて一番投げ応えがあったのはやっぱり落合(博満)さんですね。
徳光:
ほう。
大野:
落合さんがすごいのは、自分の中でイメージ通りのボールを投げているんだけど、そのボールをヒットゾーンに運べること。落合さんには、それだけのバッティング技術がありましたよね。

実際、大野氏は落合氏に42打数17安打、打率4割0分5厘とかなり打ち込まれている。
徳光:
同い年の掛布(雅之)さんはどうでしたか。
大野:
当時、阪神は強力打線でしたからね。
徳光:
すごかったですよね。
大野:
掛布もいいバッターですよね。
あの頃、僕は結構左バッターにシュートを投げてたんですね。掛布との対戦でシュートがちょっと抜けて顔のほう行って手に当たったんです。デッドボールですね。後々、「大野、インサイドに投げるのはいい。ただ、首から上はやめてくれ」と言われました。確かに首から上はいろんな支障が出やすいからいけない。掛布から学んだのは、当ててはいけないけど、首から下ならインサイドを強気に攻められるってことですね。
徳光:
なるほど。
大野:
掛布とは年代わり。打たれた年もあるし抑えた年もあるという感じでしたね。

掛布氏との通算対戦成績は121打数26安打で打率2割1分5厘だ。
徳光:
掛布さんのことはかなり抑えてますね。
大野:
うーん。やっぱりシュートが効いてましたかね。
徳光:
効いてますね。
津田恒実氏がくれた見えない力

1991年に大野氏は再び抑えに戻る。気迫あふれる投球で「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実氏とのダブルストッパー構想だったが、4月に津田氏の脳腫瘍が判明(当初は水頭症と発表された)。大野氏が1人で抑えを務め、当時の日本記録となる14試合連続セーブを達成するなど獅子奮迅の活躍でリーグ優勝に貢献。26セーブで最優秀救援投手のタイトルも手にした。
大野:
僕は、「また抑えをやるのか」っていうようなイメージだったんですよね。でも津田と2人でやるんであれば、お互いが助け合ってやろうということでスタートしたんです。
徳光:
ええ。

大野:
でも、4月のジャイアンツ戦で津田が投げて、全く津田らしくないピッチングをするんですよね。ストライクは入らない。ストライク取ったら打たれる。明らかに津田の変調、おかしいっていうのは感じました。その後、病院に行って…。
津田がいなくなってしまったということで、何とか自分が頑張らなきゃいけない。常に津田という男が自分の近くにいて、「大野さん、頑張ってください」と言ってくれてる、そんな目に見えない力を得て頑張れた1年だったっていう気がするんですよね。
徳光:
やっぱり津田さんの後押しみたいなものをお感じになったんですね。
大野:
常にありました。ちょっとチーム状態が悪いときに、山本浩二監督が選手を集めて、そのときに初めて津田の本当の病名を言われるわけです。「水頭症じゃなくて脳腫瘍」だと。「何とかチームで頑張って優勝して、津田を勇気づけて、津田を優勝旅行に連れていこう」というようなことをミーティングで言われて。それからチームが、選手が奮起しましたね。

この2年後、津田氏は32歳の若さで帰らぬ人となる。訃報が届いたのは1993年7月20日、野球界の祭典・オールスター第1戦の日だった。
大野:
僕はオールスターに選ばれて行ってましたから、東京ドームで訃報を聞いたんですけどね。
徳光:
それ、どういうお気持ちで。
大野:
いや、つらかったですよ。彼のマウンドでの姿もそうですけど、普段のひょうきんな笑顔も思い出して…。
ほんとに津田という男は野球が好きで、ピッチャーとしてあれだけの成績を残して頑張った。でも、やりたくてもできない状況になった。我々が頑張っていくことができるのは、体が元気で動くから。だったら、少々のことで弱音を吐くことはできないという感覚になりましたね。
徳光:
確かに、そうなんだろうな。
メジャーリーグから獲得オファー
1993年オフ、大野氏のもとにはMLB、カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)から公式に獲得オファーが届いた。1年間のレンタルで年俸100万ドル(当時のレートで約1億1100万円)という条件だった。

大野:
そういえば、ありましたね。ある方から「メジャーから誘いが来てる。条件も聞いてる。どうかな」ということを聞かれましたけど、もうその場で即答でお断りしました。「大変ありがたい話ですけど、僕はその気はありません」ということで。
徳光:
それは何が断る理由だったんですか。
大野:
メジャーのボールは自分のピッチングに合わない。メジャーのちょっと大きなボール、すべりやすいボールは、僕は指が短いですから合わない。それに、昔気質の考え方かも分かりませんけど、カープというチームにテストで入って、ここまで育ててもらった。だから、カープで最後までやりとげるという気持ちしかなかったですから。
悔しくなかった高橋由伸氏のホームラン
1996年8月、40歳になっていた大野氏は左上腕部動脈血栓症の手術を受け、約1カ月間、戦列を離脱する。
大野:
僕がやめた原因も結局、血栓症なんです。脇の血管が潰れて詰まってしまった。再起して一回復帰するわけですけど、43になる年に結局また再発したんですよ。
徳光:
でも、41歳のときにはいい成績を残してますよね。

1997年、大野氏は23試合に登板して9勝6敗、防御率2.85の成績で、2度目の最優秀防御率に輝いた。翌98年に大野氏は開幕投手を務める。42歳7カ月での開幕投手は史上最年長だ。
大野:
最優秀防御率は42歳になる年。43歳になる年が開幕投手ですよ。でも、その年に血行障害が再発して、もうそれがきっかけに…。「もう1回手術しなさい」と言われましたけど、「もういいです」と。もう辞めていいんじゃないかということで手術もせずに。
徳光:
う~ん。

大野:
この年、高橋由伸との最初の対戦で逆転3ランを打たれてるんです。それが僕の引退のきっかけになりました。僕自身、1人、すがすがしい気持ちでマウンドを降りてるんです。「これで辞められる。もう二度とマウンドへ上がることはない」と。
1998年8月4日の巨人戦、大野氏は5対3と広島がリードして迎えた8回表2アウト三塁一塁の場面で先発の佐々岡真司投手をリリーフ。しかし、黄金ルーキー・高橋由伸氏にスライダーをバックスクリーン横に運ばれ、逆転を許した。

大野:
やっぱり人間って悔しさがなかったらダメですね。それまではいろんな経験をして、失敗しても常に「悔しい、今度こそやり返してやろう」と思ってやってた男が、全く悔しくなかったんです。もう安堵感というか、「これで辞められる」、それしかなかったですから。「もう辞めなきゃいけないな」と思いましたね。
徳光:
でも、22年の現役生活で通算148勝138セーブ、防御率2.90という野球人生は、やっぱり自分を褒めたいんじゃないですか。
大野:
現役時代は自分を褒めるということはあんまり思わなかったですけど、辞めた後に「大野、よく頑張ったな」と。野球の中の原点は、常に最初の年の135なんです。それ以上は絶対悪くならない。絶対良くなる。
徳光:
防御率ですね。
大野:
ええ。すごく防御率にこだわってやったんですよ。通算2.90がすごいかどうかは別として、そういうこだわりを持ちながらやり続けた22年間に、自分では非常に納得できますね。だから、自分から辞められた、辞める気持ちになれたんだと思います。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/25より)
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