プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
軟式野球からドラフト外でプロ入りした異色の経歴ながら、通算148勝138セーブをあげた大野豊氏。“7色の変化球”と呼ばれた多彩な球種でバッターを翻弄し、最優秀防御率2回、沢村賞1回、最優秀救援投手1回。広島カープ一筋22年で3度の日本一と5度のリーグ優勝に貢献した“広島カープのレジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
徳光:
プロ野球レジェンドOBたちの試合とかあるじゃないですか。大野さんも出ていらっしゃいますが、すごいですよね。大野さんが1球投げただけで会場がウォーッとなる。いまだに速いですよね。

大野:
いやいや、そんなことはないです。後で動画とか見るじゃないですか。ちょっとガックリきますね。
徳光:
そうですか。逆にガックリくることがすごいですね。
足腰が鍛えられた砂浜での草野球
徳光:
さて、大野さんは島根県出雲市のご出身でございますけど、野球を始めたのは小学校のときですか。
大野:
小学校ですね。我々の時代というのは、遊ぶ一環として、とにかく近所の友達とか色々な方々と野球をして遊んだという感じですよね。
徳光:
それは学校のグラウンドですかね。
大野:
学校のグラウンドもありますけど、田舎ですから、砂浜とか稲刈りした後の田んぼとかでやったり。
徳光:
砂浜ですか、足腰が鍛えられそうですね。
大野:
それはすごく感じますね。そういう意味では、非常にいい環境で、知らず知らずのうちにそういう強化ができたと思いますね。
徳光:
中学では野球部に入られたんですか。
大野:
最初は陸上部に入ったんです。
徳光:
えっ、そうなんですか。

大野:
1500mをやってました。1年生、新人のときに市の大会で走ったんですけど、19人のうち11位だったんです。上には上がいるなということで、それで野球部に入ったという感じです。
徳光:
野球部ではどこを守ってましたか。やっぱりピッチャーでしたか。
大野:
ピッチャーはほとんどやってなかったですね。外野をやっていました。
徳光:
それで、中学で野球選手として評判が上がって、いろんな高校から誘いが…。

大野:
いえいえ、そんなことは全くないです。母子家庭で育ってましたから、自分としては中学校を卒業したら、とにかく手に職をつけるという思いで、高校へは行かないつもりだったんですよ。
徳光:
就職しようと思ったんですか。
大野:
はい。就職しようと思ったんです。でも、やはり母親や親戚が「高校には行かなきゃいけない」ということで、出雲商業に…。
徳光:
なるほど。その出雲商業では最初から野球部へ入ったんですか。
大野:
はい。野球部に入りました。
徳光:
ピッチャーですか。それとも外野手ですか。

大野:
外野ですね。たまにピッチャーとして先輩に投げたら、球は速いけどコントロールが悪いから、先輩に嫌われたんです。エース番号をもらったのは2年の新人からですね。うまくハマれば三振が取れる。でも、つまずいてしまうとフォアボールで自滅する。すごくムラのある投手でした。
徳光:
確か、出雲商業は甲子園に出たことがありましたよね。
大野:
僕が入る前、当時は出雲産業高校という高校でしたけど、そこで1回、春のセンバツに出てたんですよね。
徳光:
大野さんの頃はどうだったんですか。
大野:
僕は最後の夏の県大会1回戦で終わりましたから。
徳光:
えっ、そうですか。
大野:
中学・高校と通じて、勝って良かったなという思い出がほとんどないんですよね。ただ、練習がキツかったなというくらいしか残っていないです。
徳光:
そうですか。県大会1回戦で負けたということは、やっぱりプロからの話、スカウトの目に止まるようなことはなかったんですかね。
大野:
当時、ロッテのスカウトをされていた濃人(渉)さんが来られたようですけど、監督が「彼はプロでできない」と。社会人であればということで、三菱重工三原に1週間ほど行きましたけど、即、お断りしました。
徳光:
ご本人が断ったわけですか。

大野:
断りました。自分も参加して練習したんですけど、やっぱり社会人の練習にはちょっとついていけなかったですね。それと、母親を田舎の出雲に残して県外に出る考えは全くなかったんです。そっちのほうがすごく大きかったですね。
徳光:
なるほど。それで、地元に就職したわけですね。金融関係ですよね。
大野:
そうなんですよ。信用組合ですね。こう見えても“元銀行マン”なんです(笑)。
札束を数える“札勘”が野球に生きた!?
大野氏が就職したのは出雲市信用組合。ここで仕事をしながら野球部でも活動した。
大野:
軟式野球でしたけど、これはやりがいがありましたね。ノンプロじゃありませんから、当然、正規の業務を終えてから練習です。金融機関ですから計算が1円でも違ったら帰れません。
徳光:
信用組合ではどういうお仕事をされてたんですか。
大野:
僕は約3年いましたけれど、2年は渉外。要は外歩きですよね。お客さんのところへ行って売り上げを頂いて預かって帰る。3年目が融資。窓口に座って「いらっしゃいませ」って。
徳光:
窓口ということは、あの手際よくお札を数えるのもできるんですか。
大野:
できますよ。体で覚えたことは忘れないですね。
徳光:
本当ですか(笑)。ちょっと見せてもらえますか。
大野:
札勘(紙幣の枚数の勘定)は2つあって、お札を縦に持って、親指でずらしながら薬指で弾いて数えるのが縦読みです。横読みは両手の親指を支点にしますよね。それでリストを8の字に回すんです。

こう言いながら、札束を見事に扇形に広げた大野氏。
徳光:
きれいですね。
大野:
この形にしてダーッと数えて、「はい、間違いありません」。この横読みのときの力の抜き方が後々ピッチングに生きてくるんですよ。
徳光:
本当ですか(笑)。
大野:
人間の本能って、どうしても力で広げようという感覚になるんですよね。親指だけを支点にしてリストの力を若干抜くとうまくいく。ピッチングでもリストに力が入っちゃったら、スナップが効かないんです。
徳光:
そうか、なるほど。

大野:
フッと力を抜く。最後にリストをいかす。これは札勘とピッチングで共通してるんです(笑)。
徳光:
そうですか(笑)。他の野球経験者にはまずないですね。
大野:
分からないでしょうね。僕独自の感覚。
徳光:
そうですよね。
軟式からプロを目指したきっかけ
徳光:
出雲信用組合は強かったんですか。
大野:
強かったですね。県で大体優勝。中国大会に出るし国体も。
徳光:
軟式というのは準硬式みたいなボールなんですか。
大野:
春先は準硬式でやって、それから軟式。
徳光:
完全に軟球なんですか。
大野:
そうです。昔の軟式ボールっていったら本当に柔らかいんです。いざ投げる瞬間、指先の力でボールがへしゃげるというか。
徳光:
すると、よく曲がるわけですか。

大野:
そうです。みんな抑え込んじゃうからストライクがキャッチャーまで届かないんです。でも、この軟式ボールの野球というのは奥が深いんですよね。硬式と違って弾みもありますしね。いろんな作戦の中でいろいろ覚えさせてもらいました。
その社会人で軟式やっている間にプロに入るきっかけがあったわけですよ。
徳光:
それは何ですか。

大野:
21歳のときまで、プロ野球でやるという感覚は全くなかったんです。
でも、21歳になったとき、平田高校から神奈川大学にいった青雲(光夫)という選手が阪神のテストに受かったんですよ。高校時代は彼と結構投げ合ってて、「彼が入るなら」という刺激もありましたね。
あと、出雲高校が中国大会に出ることになって「練習試合をしてくれ」と頼まれて、3年ぶりに硬式ボールを投げたんです。そのときに5回を投げて13奪三振。ハマったんです。「俺、硬式でも投げられるじゃん」というような感覚になって。
徳光:
なるほど。

大野:
そして、決定的になったのは、当時カープの主力打者だった山本一義さんとエースだった池谷公二郎さんが出雲の野球教室に来られて、我が信用組合がお手伝いしたことです。初めてプロの人に会って色々な話を聞かせていただいて、すごく刺激になりましたね。それから、「ちょっとプロでチャレンジしてみたいな」と思い始めたんですよね。
辞表を出して臨んだプロテスト
徳光:
プロテストはご自分で志願して受けられたわけですか。
大野:
僕が高校1年生のときの監督が法政大から熊谷組に行かれた方で、山本一義さんの先輩になるんですよね。
徳光:
法政でね。

大野:
全く弱いカープしか知らなかった中で、1975年に初優勝したじゃないですか。それで、山本さんに連絡していただいて、「こういう子がいるけど、テストはどうか」とカープを紹介してもらったんです。
出雲市信用組合の当時の野球部監督は常務だったんで、僕も一応けじめをつけようと思って辞表を書いて持っていったんです。「これこれこうで、プロのテストを受けに行きます」。そしたら、「馬鹿なことを言うな。お前、プロのテストなんてそんな簡単に受かるもんじゃないだろ。これは預かっておくから、1週間休暇を取って黙って行ってこい。どうせ落ちて帰ってくるから、そのときは破って捨てればいいから」という配慮をしていただいて…。
徳光:
それは、どういうテストだったんですか。
大野:
自分としては、例えば50メートル何秒、遠投何メートルという感覚で行ったんですけど、全くそういうのはなくて、居残りの人と一緒に練習して、ピッチングして、それを見てもらう。当時のスカウト部長は木庭(教)さんという方で、3日間それを見ていただいたんです。

徳光:
木庭さん、名スカウトですよね。
大野:
ええ。今はもうありませんけれど、当時は三篠に寮があったんですね。その寮で最後に木庭さんの部屋に呼ばれて、「カープとしてはお前さんを取りたい」と言われました。「だけど、もう一度考えてみなさい。銀行マンという堅い仕事を蹴って、プロ野球というギャンブルの世界に入るのは大丈夫なのか」と聞かれましたけれど、もう自分の中では「ありがとうございます。よろしくお願いします」しかないですよね。会社には「受かりました」って報告して。
徳光:
じゃあ、「辞表をそのまま受け取ります」ですよね(笑)。そうですか、へぇ。
それがいつのことなんですか。
大野:
キャンプ中の話です。3月6日に広島に来て、3月8日でしたかね、1人で入団会見をやらせていただきました。
泣きながら帰った初登板…防御率135.00
徳光:
3月に入団してしばらく二軍生活を送るんですか。
大野:
5月から二軍で投げ出して3勝して、8月に一軍に呼ばれるんですよ。すごいですよね。
徳光:
ええ、そうですね。
大野:
それで、9月4日に初登板するわけです。プロに入ったということで出雲に後援会ができて、その後援会の方々がバス2台で応援に来られたんですよね。阪神戦での敗戦処理でしたけど、これがまた散々な目に遭いました。
徳光:
どんなやられ方だったんですか。

大野:
ヒット、ヒットと打たれて、タイムリーを打たれて1点。またヒットを打たれて満塁になったところで片岡(新之介)さんに満塁ホームラン打たれて、その後フォアボール、フォアボールで交代。結局3分の1回5失点です。
僕は見てなかったんですけど、後で話に聞くと、後援会の人たちが「はばたけ大野豊」という10メートルくらいある横断幕をガッと揚げてくれてたらしいんですよ。それが打たれるたびにどんどん下がっていって…。最後はみんなしょんぼりして…というような話を聞きました。
大野氏のプロ1年目の登板はこの試合だけ。3分の1回で自責点5。防御率は135.00だった。

大野:
僕は22年間やりましたけれど、僕の球歴の1年目の防御率は135です。多分、この記録を破った人はいないんじゃないですか。
徳光:
いないと思いますね。

大野:
今でも思い出しますけど、この日は旧広島市民球場から三篠まで歩いて帰ったんですが、橋の上で川を見ながら、さすがに飛び込もうとは思いませんでしたけど、本当に泣き泣き帰りましたよ。寮に帰ったら山本一義さんに「まあ、こういうこともある。この先頑張れ。間違っても自殺するなよ」と。
徳光:
言われたんですか。
大野:
電話で言われました。自殺する気はありませんでしたけどね。
ただ、キャンプもやっていない、まともに練習もしてない。体力でも技術でもメンタルでも自分の力のなさ、弱さを感じて、それを受け止めながらも、練習をきちっとやれば、もう一回チャンスはあるかなと思いました。
社会人時代も渉外とかやってたときは、定期とか積み立てのノルマがあったんですよ。コツコツと積み重ねて、いろんなところにお邪魔してお願いする。ノルマ達成にはやっぱりそれしかないと思ってやってましたから。
プロ野球でも、やっぱりいきなりうまくなることはない。そのためにはやっぱり練習しかない。それができなかったわけですから。
徳光:
なるほど。プロ野球と勧誘のノルマの関係を話せるのは大野さんしかいませんね(笑)。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/25より)
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