今年は戦後80年です。
いま、戦争を体験し、語る人が少なくなっています。
ライブBBTは、こうした現状を踏まえ、「戦争の記憶」を次の時代へ繋いでいくプロジェクトを始めます。
体験した人にしかわからない「戦争のむごさ」、そして、「平和の大切さ」。
そうした方々の「声」を記録し、伝えていきます。
初回は、80年前に富山大空襲を体験したひとりの男性と孫の高校生、2人の「思い」を伝えます。
今月3日。高岡市内に高校生が集まっていました。
グループ「輪音」。県内4つの高校に通う2・3年生9人が、「戦争の記憶」の継承に取り組んでいます。
戦後80年。
今年、富山大空襲の戦跡を巡るツアーの開催を検討しています。
*高校ボランティア団体 輪音 西田七虹さん
「松川沿いに空襲の時に焼い弾があたって欠けた灯籠があって…」
メンバーの一人、富山国際大学付属高校2年の西田七虹さん。
自分が住んでいる地域で80年前に何があったのか、富山で暮らす人に知ってもらいたいと考えていました。
*高校ボランティア団体 輪音 西田七虹さん
「実際に(富山大空襲を)体験された方が亡くなって少なくなっているので、忘れてはいけないというのは私たちの中でも大きい。そこを伝えていきたい」
この2日前。七虹さんは、母親の亜希代さんと一緒に富山市で暮らす祖父を訪ねました。
祖父の進さんは、現在89歳。10歳の時、富山大空襲を体験しました。
*高校ボランティア団体 輪音 西田七虹さん
「輪音で空襲に関する場所を巡るツアーをしようとしている。おすすめある?」
*佐藤進さん
「松川べりで距離があるけれども、両端に灯籠があった。石の灯籠。そこに焼い弾が落ちて欠けてそのままになっている。そこを見た方がいいかな」
80年前、1945年8月2日未明。
アメリカ軍の爆撃機「B29」174機が富山市上空に現れ50万発を超える焼い弾を投下しました。
2時間に及ぶ爆撃で、中心市街地は一面焼け野原となり、2700人を超える命が奪われました。
当時、10歳だった進さんは、焼い弾が降り注ぐ中、4歳年上の兄とともに命からがら川へ飛び込みました。
*佐藤進さん
「空襲が終わって川から上がって辺りをみると一面の焼け野原だった。男だか女だかわからないような遺体もたくさん横たわっていた。地獄だった。」
富山市の市街地を焼け尽くした焼い弾。
80年経ったいまも、その爪痕が残っています。
七虹さんは、進さんから聞いた話をもとに、今年7月、輪音のメンバーと富山市街地の戦跡を巡るツアーを開催することにしました。
*高校ボランティア団体 輪音 西田七虹さん
「本当にここで(富山大空襲が)あったということを、自分の肌で実感するのに、その場所を巡って説明できたらいいと思った」
富山市内を流れるいたち川。
*佐藤進さん
「撮れた」
80年前、焼い弾の炎から逃れようと川に入り、命を落とした人がいます。
戦後80年。「あの時」を体験した人が、知る人が、減っています。
進さんは、年々、体力の衰えを感じていました。
「戦争の記憶」を後世に残していく…。
できる限り、言葉で、娘の亜希代さんや孫の七虹さんに伝えていくつもりです。
*佐藤進さん
「この時期になって花見ができるのは当たり前だが、この当たり前が一番幸せなんでしょう。当たり前が続くようにしないといけない。今の人たちはなんとも思っていないと思うが、花見ができるということは本当に平和なんだなと思う。久しぶりに花見ができた」
孫の七虹さんが企画する富山大空襲の戦跡めぐりは、小学生の親子が対象です。
今後、情報は「輪音」のインスタグラムやXで発信するということです。
「シリーズ 戦後80年 ーつなぐー」。ライブBBTは、戦争体験者の「声」、「平和の願い」を伝え続けます。