「期待をかける側」では、「これだけ期待したのに、なんで?」という言葉が思い浮かんだり、「期待される側」では「いやいや。勝手にそんな期待をされても困ります」といった言葉が思い浮かんだりしますよね。
時に立場逆転するため振り回される
私の著書の中に『否定しない習慣』(フォレスト出版)という本があるのですが、執筆の過程で多くの知人に、記憶に残る「否定された瞬間」についてインタビューをしたことがありました。
その中で、「『早く孫の顔が見たい』と義理の母から言われることが辛い」というコメントをくださった方が何人かいました。
義理の母の方からすれば、言った瞬間に忘れ去ってしまうような、些細な言葉だったのかもしれません。言い換えれば、「淡い期待」でしょうか。
しかし、受け取った側としては、「なんで子どものことを言われなきゃいけないの?だいたいこっちの事情を全然わかってないでしょ!」と怒り心頭なところかもしれません。

これは、相手に否定されたと感じるメカニズムでもありますが、その裏には期待という衝動も生まれています。
それは、「そういう無神経なことを言わないでほしい」という勝手な期待。ただこの願いは、相手にわざわざ言葉にすることなく、心の中で増殖し続ける期待として、長く記憶に残り続けます。
つまり、私たちは「期待の被害者」にもなれば、時に立場が逆転して、「期待の加害者」にもなっているということなのです。
そんな「一人二役」を平然と演じきる私たちは、もしかしたら期待という存在に日々振り回されているのかもしれませんね。
なぜかモヤッとするとき、その気持ちの中には相手に対する期待の衝動がひそんでいることを覚えておきましょう。
なぜ「期待しすぎ」るのか
そう考えると、「期待」と「対人間関係」は切っても切り離せない関係のように思えてきます。
人と人との関係性の育て方について、ここでは少し考えてみましょう。
私がコーチングを提供しているお客さまに、あるメーカーの財務部長をされている方がいます。財務部には、担当業務ごとに5つの課があり、それぞれの課には課長がいるのですが、ある日のコーチングセッションで、部長さんからこんな相談を受けました。