早い段階で菅野に「開幕はお前で行く」と言って調整させるべきだった。それでいいピッチングをしてくれれば御の字だし、もしKOされたら「リリーフに回ってくれないか」と言うこともできる。それなら菅野も納得するはずだ。求心力のある投手には、そうやって配慮する。これがチームを改革する手順なのだ。
34歳の菅野はプロ12年目を迎えて、さすがに故障や欠場が多くなった。前年は自己ワーストの4勝に終わり、「エースの証明」である2024年の開幕投手を24歳の戸郷に奪われてしまった。
それでも試合を作る円熟した投球術で前半戦を8勝2敗で折り返し、8月4日のヤクルト戦では10勝目(2敗)をマークした。しかし能天気なスポーツマスコミのように喜んではいられない。
相手の先発投手を見ると、主力投手といえるのはヤクルトの高橋奎二(8勝9敗、4月11日)、広島の森下暢仁(10勝10敗、9月10日・28日)、阪神の才木浩人(13勝3敗、9月22日)くらいで、ほとんどが格下。
開幕から8月までは、ほとんど同一カードの最終戦に投げていたから、格下投手を相手に勝ってきたといっていい。
カード初戦は必ず戸郷・菅野に先発させろ
報道によると阿部監督は開幕前、「菅野は中7日以上空けてもいい」と語っていた。その方針通り、前半戦は原則中6日で登板していたのは、菅野の年齢とコンディションに配慮したのだろう。たっぷりと登板間隔をもらい、エース級との投げ合いがないなかで勝ち星を重ねてきたわけだ。
勝率と防御率のいい菅野は7月28日のDeNA戦で3年ぶりに完封勝利を収めて規定投球回(=チーム試合数)に達したが、この勝率も相手投手の顔ぶれとの関係を吟味しなければいけない。この因果関係と勝敗の本質を、なぜ野球評論家は指摘しないのか。ファンやマスコミと一緒に「勝った勝った!」と評価するだけでは専門家とはいえないだろう。
菅野はその後、8月25日の中日戦に先発し、7回1/3を被安打5で12勝(2敗)まで勝ち星を伸ばした。だが、7月からこの日までの先発時の相手チームはヤクルト、DeNA、中日、DeNA、ヤクルト、中日、DeNAと下位チームばかり。しかも登板間隔はいずれも中6日で、ローテーションの順番は山﨑伊織、グリフィン、戸郷、西舘勇陽、井上温大だった。
つまり中日戦前の首位・広島との直接対決には菅野の出番がなかった。山﨑・井上の成長と頑張りがあったとはいえ、カード変わりの3連戦には必ず戸郷と菅野の新旧エースが交代で先発登板してほしかった。そうすれば、どのカードも二枚看板が先頭に立ってチームを牽引することになる。
そして9月10日、広島との首位攻防戦でカード頭の第1戦に菅野が先発し、巨人のVダッシュが始まった。
この試合、菅野は5回を1安打5奪三振無失点で14勝目(2敗)を挙げた。巨人は同月5日のヤクルト戦に勝って広島から首位を奪回していたが、菅野はその後もカード頭の先発を続けた。28日の広島戦では8回無四球1失点で15勝目を挙げ、巨人4年ぶりのリーグ優勝を決めた。
15勝3敗、防御率1.67で勝率と最多勝のタイトルを手に35歳のレギュラーシーズンを終えた菅野について、最後まで巨人に食い下がった阪神の岡田彰布監督は「(巨人の優勝は)菅野やろ、菅野の貯金が大きいよ。去年との一番の違い」と言ったそうだが、そんな菅野を阿部はなぜ、8月まで先発ローテーションの6番目に使ったのか。
先述のように菅野を開幕投手にしていたら、巨人はもっと楽にリーグ優勝ができたはずだ。

広岡達朗
1932年、広島県呉市生まれ。早稲田大学教育学部卒業。1954年、巨人に入団。1年目からは正遊撃手を務め、新人王とベストナインに選ばれる。引退後は評論家活動を経て、広島とヤクルトでコーチを務める。監督としてヤクルトと西武を日本シリーズ優勝に導き、セ・パ両リーグで日本一を達成。1992年、野球殿堂入り。2021年、早稲田大学スポーツ功労者表彰。