麻原は、日本の機能そのものを麻痺させようと企て、幹部信者5人に指示し、1995年3月20日に東京都心を走る朝の地下鉄の3つの路線、5つの車両内でサリンを同時多発的に撒いた。

この地下鉄サリン事件(13人殺害 5800人以上重軽傷)に、いよいよ日本中が震撼することとなった。
駅という駅からゴミ箱が撤去され、制服警察官がホームに立って厳戒態勢が敷かれた。サリンが空から大量に散布されるXデーが来るとのデマも飛び交うなど、社会不安を大いに生んだ。
警視庁は、3月22日に目黒公証役場事務長の拉致監禁致死事件を突破口に家宅捜索を行う予定だった。
しかしオウムは直前の3月20日に地下鉄サリン事件をおこし、日本警察の機先を制したのである。

大混乱の中、警視庁などは3月22日、山梨県上九一色村の施設をはじめ全国にある教団施設への強制捜査に踏み切った。
そのわずか8日後に、今度は捜査の陣頭指揮を執る全国警察のトップである警察庁長官が銃撃されるのである。
治安情勢が混迷する最中、治安維持機関のトップが銃撃されたことで、世間に与えた衝撃は計り知れないものがあった。
鳴り響いた4発の銃声
1995年3月30日は冷たい小雨まじりの朝だった。
午前8時20分過ぎ、警察庁長官の秘書官は、荒川区南千住にある国松孝次長官の自宅に長官車で到着。10メートル先には、所轄署である南千住警察署の長官警戒車が待機していた。

すると警戒車から警戒員と南千住署警備課の係長が、佐藤警備課長から渡されたビラを持って長官車の秘書官のところにやって来て、「昨日アクロシティで配られたオウム真理教のビラです」と渡してきた。

秘書官はそれをもって傘を差し長官車を出て、長官宅のあるアクロシティEポート6階に向かった。