世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
在原業平は、「桜が無ければ人々は心穏やかに春を過ごす事が出来るのに」と詠むことで、桜の素晴らしさを際立たせた。古今和歌集の編纂から1100年以上経つが、これほど見事に桜の素晴らしさを表現した作品は他に無いだろう。私が暮らしている韓国・ソウルでも、春には桜を楽しむ事が出来る。しかし、韓国では別の意味で「のどけからまし」と感じる問題がある。毎年春になると「ソメイヨシノは韓国起源」という説が飛び交うからだ。
ソメイヨシノ韓国起源説の始まり
この記事の画像(5枚)韓国には日本統治時代に多くのソメイヨシノが植えられた。ソウルを流れる漢江の中州・汝矣島(ヨイド)などは桜の名所として知られ、ソウル市民の憩いの場となっている。その韓国では、なぜかソメイヨシノは「王桜」と呼ばれている。実はこの呼び名は「ソメイヨシノ韓国起源説」と密接に関わっているのだ。
韓国の行政機関である文化財庁は「ソメイヨシノは韓国が起源」だと主張している。その理由はこうだ。1908年にフランス人神父が韓国の済州島に自生していた桜を採取し、それをドイツ・ベルリン大学の研究者に送ったところ、日本のソメイヨシノと同じである事が分かったのだという。1933年には京都大学の植物学者・小泉健一博士が「ソメイヨシノが済州島に自生していた」と発表した。済州島の桜を韓国では「王桜」と呼んでいたため、文化財庁は「ソメイヨシノ=王桜」であり、「ソメイヨシノは韓国起源」と主張しているのだ。そのため韓国では、済州島に自生する王桜と区別される事なく、ソメイヨシノも王桜と呼ばれている。
春になると、韓国メディアはきまってこの「ソメイヨシノ韓国起源説」を報じる。中でも、ワシントンDC・ポトマック河畔に咲き誇る桜について「起源は韓国だ」とわざわざ主張する事が多い。日米友好の象徴となっている「ワシントンの桜」が、よほど気に食わないようだ。
文化財庁は、「日本が植えた桜を複雑な視線で見る人もいるが、韓国起源だと理解してほしい」とも主張している。韓国が起源説にこだわる理由はまさに「日本が植えた桜だが、起源は韓国なんだから楽しんでほしい」という論理を維持するためであり、韓国メディアもそんな花見客の心情を汲んで、毎年風物詩のように報じているのかもしれない。
韓国に自生する「王桜」を見てみると、確かに日本の「ソメイヨシノ」と見た目はソックリだ。しかし、この「ソメイヨシノ韓国起源説」は、遺伝子的に明確に否定されている。
韓国の研究者が「ソメイヨシノと王桜は無関係」と発表
2018年9月、韓国山林庁国立樹木園は、韓国にとって衝撃的な研究成果を発表した。韓国の王桜とソメイヨシノの遺伝子を解析した結果、全く異なる種であることが確認されたというのだ。韓国の王桜とソメイヨシノは遺伝的に別物である事が科学的に証明された事を受け、韓国の大手紙中央日報は「韓国か日本か、ソメイヨシノ起源めぐる110年論争にややあっけなく終止符が打たれた」と報じた。
そもそも「ソメイヨシノは韓国起源」と言っていたのは韓国だけで、日本では様々な研究によりソメイヨシノはエドヒガンなどから交雑した日本産の園芸品種であることがすでに明らかになっている。韓国メディアは日本の研究結果から目を逸らし、毎年春に「韓国起源説」を報じていたが、韓国の研究者による遺伝子解析で「無関係」と判明したため、ついに白旗を挙げた形だ。
しかし、まだ諦めない人がいた。
それでも「ソメイヨシノは韓国起源だ」
今年もまた、「ソメイヨシノ韓国起源説」が途絶える事は無かった。今月20日、王桜が自生している済州島の済州大学校のキム・ジョンソプ教授が、「済州島を経て日本とアメリカに渡った桜の遺伝子が一致した。済州が王桜(ソメイヨシノ)の発祥地だ」との研究結果を発表したと、済州島の地元メディアが報じたのだ。一体どういう事なのか?キム教授に聞いてみると、「間違った記事が出た」のだという。
キム教授の主張はこうだ。去年発表された「遺伝子的に無関係」という研究結果にはオマケが付いていて、済州島で調べた王桜5本のうち、4本は遺伝子的にソメイヨシノとは無関係だったが、1本はソメイヨシノとほぼ同じ遺伝子であることが分かった。研究チームは、その1本について、「何らかの理由で日本から済州島に持ち込まれた」と推定したが、キム教授は、「この1本の木があるという事は、済州島の王桜はもともと2種類あって、そのうちの1種類が日本に渡ってソメイヨシノになった可能性もある」と主張している。平たく言えば、「ソメイヨシノが韓国起源である可能性はまだ残っているので引き続き調査が必要だ」と言いたかったらしい。いかにも苦しい説だが、地元メディアの記者は、自分の願望を記事に込めすぎたのかもしれない。
「日帝残滓清算」の嵐…韓国のソメイヨシノは生き残る事が出来るのか
このキム教授の「説」は、大手韓国メディアでは報じられていない。逆に大手紙ハンギョレ新聞は、韓国起源説を放棄し、「王桜はソメイヨシノ桜に改名しよう」「日本産の桜は40~50年後に寿命が終わって徐々に淘汰され、韓国特産の王桜で代替されるだろう。日帝(※戦前の日本の事)清算という意味もあるだろう」との専門家の主張を報じている。韓国起源と主張出来なくなったので、「日本の桜など取り換えてしまえ」という路線に変更したようだ。ただ、すぐにソメイヨシノを引き抜けという主張ではないだけ、まだ穏当だ。3・1独立運動から100年を迎えた文在寅政権は「日帝残滓清算」の圧力を強めていて、慶尚南道教育庁は今年2月、庁舎前に植えられていた「カイヅカイブキ」という木を、「日本統治時代に植えられた」ことを理由に根元から引き抜き、別の場所に植え替えてしまった。
植物は歴史問題とは関係なく、それぞれがそれぞれの場所で枝葉を伸ばし花も咲かせて懸命に生きているが、「日帝残滓清算」の前では、そんな事は問題にならないようだ。韓国でも、春に桜を楽しむ事が文化として定着しつつあり、「日本の桜だけど気にしない」という人も多いと感じる。「ソメイヨシノ韓国起源説」が否定された今、いわゆる徴用工問題などに端を発する日韓関係悪化と日帝残滓清算のあおりを受けて、韓国の春を彩るソメイヨシノが引き抜かれない事を願う。
【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】
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