鹿児島・日置市の吹上浜で、市川修一さんと増元るみ子さんが北朝鮮に拉致されてから46年が経つ。関係者の高齢化が進む中、市川修一さんの兄・健一さんからバトンを託された女子高校生の「拉致問題を解決したい」という思いが、確実に若い世代へと広がっている。

「拉致問題を忘れないで」

「『兄ちゃんただいま』という弟の声を聞きたい。早く会いたい」と話すのは、拉致被害者・市川修一さんの兄、市川健一さん(79)だ。

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2024年8月9日、強い日差しが降り注ぐ中、健一さんの姿は、日置市にあった。
妻の龍子さんと一緒に停車中のドライバーにチラシを手渡しながら、情報提供を呼びかけていた。

「もう46年になっているんです」「拉致問題を忘れないでください」とドア越しに必死に呼びかける2人の横で、一緒に頭をさげ、チラシを手渡す人がいた。鹿児島県立川内高校1年の羽島奈穂さん(15)だ。

同じ日、羽島さんは両親と一緒に日置市吹上浜を訪れた。

1978年(昭和53年)8月12日、市川修一さんは「夕日を見に行く」と言って増元るみ子さんとこの場所を訪れ、北朝鮮に拉致された。やわらかい砂浜を進むと、目の前には静かな海が広がっていた。羽島さんは、「意外と静かな場所。本当にここで起きたのかな」と遠い目でつぶやいた。

羽島さんが拉致問題に関心を持ったきっかけは、中学3年の時に拉致問題を題材にした作文コンクールに参加したことだ。健一さんに直接話を聞いて紡いだ作文「市川さんに託されたバトン」は、全国で最優秀賞に輝いた。

残された家族の46年に及ぶ苦悩

受賞後、羽島さんは再び鹿屋市の市川健一さんの自宅を訪れた。
リビングに通され、健一さん夫妻から、若くして拉致された修一さんと残された家族の、46年に及ぶ苦悩を聞いた。

自分にも兄がいる羽島さんは、「もし兄が拉致されたらって思うと、悔しいだけではダメだなって思う」と涙ながらに声を絞り出した。

龍子さんが、修一さんとの思い出の品々を見せてくれた。
修一さんが吸っていたタバコや、母・トミさんが修一さんに宛てた手紙だ。中でも特別な思いがあるもの。それは、修一さんが初任給でトミさんに贈ったいう「大島紬」だ。

この大島紬について、トミさんが修一さんへの想いを語った映像が残されていた。修一さんが帰ってきたら、これを着て出迎えにいこうと、トミさんは思っていた。

大島紬を「出したら泣けるから出さなかった」というトミさんは、結局一度も袖を通すことなく2008年11月、91歳で亡くなった。着せてあげたかったと悔やむ龍子さんを見て、羽島さんは「まだ諦めたらだめだ」と改めて感じたという。

拉致問題への関心を若い世代へ

羽島さんが通う、川内高校の教室。
この日、羽島さんは、同級生で放送部の盛山稟心さんに向き合っていた。

拉致問題への関心を若い世代へと広げていくことによって、世論を高め、最終的な解決につなげたいという羽島さんの熱意に、盛山さんの気持ちが動かされていた。

「自分にはあまり関係ない話」と思っていた盛山さんは、羽島さんの話を聞いて放送部のコンクールで拉致問題を取り上げたいと考えるようになった。

市川修一さんの拉致から46年。解決を見ないまま半世紀が経とうとする中、冒頭のチラシ配りの現場には、羽島さんの作文を読んだという中学生も訪れるなど、羽島さんの「拉致問題を解決したい」という思いは、確実に若い世代へと広がっている。

羽島さんの行動力について健一さんに聞くと、「若い人たちがそういう気持ちになってくれるとありがたい。これを望んでいる」と顔をほころばせた。

「自分の想像以上に周りの人が興味をもってくれた」と手応えを感じている羽島さん。これからも“市川さんに託されたバトン”を多くの人につないでいこうと考えている。
修一さんが「ただいま」と言えるその日まで。

(鹿児島テレビ)

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