1978年8月12日、鹿児島・日置市の吹上浜で、市川修一さんと増元るみ子さんが北朝鮮に拉致された。あれから45年、拉致問題の風化が懸念される中、霧島市の高校生が拉致問題の現状を伝えようと動画制作を始めた。弟の帰りを45年間待ち続ける市川さんの兄・健一さんの思いを取材した。

「早く会いたい」 45年たった今、思うこととは

ーー45年の月日をどのように感じていますか。

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拉致被害者・市川修一さんの兄 健一さん:
45年ね…長いですよね。早く会いたい

2023年8月5日、鹿児島テレビの取材に講じた市川健一さん(78)。弟・修一さんの帰りを待ち続けて45年となった。

拉致被害者・市川修一さんの兄 健一さん:
本当に会って両親の分までしっかり抱いてあげたい。「お帰り」という言葉をかけてあげたい。今年の夏もその言葉をかけることはできなかった

1978年8月12日、市川修一さん(当時23)と増元るみ子さん(当時24)は「夕日を見に行く」と出かけた日置市の吹上浜で北朝鮮に拉致された。

家族を取り戻すため、市川さんら拉致被害者家族は署名活動や講演会を続け、政府に一刻も早い拉致被害者の奪還を訴えてきた。

2002年、当時の小泉純一郎首相らが北朝鮮を訪問。当時の金正日(キム・ジョンイル)総書記は拉致の事実を認め、拉致被害者5人が帰国。歴史が大きく動いた。

しかしその時、市川修一さんや増元るみ子さんを含む8人は「死亡」と通告された。当時健在だった父・平さんと母・トミさんも、テレビの速報でその事実を知った。

それから21年、拉致問題は解決の糸口すら見いだせていない。

“風化”を感じた拉致問題 

そんな中、市川さんにはある懸念がある。

拉致被害者・市川修一さんの兄 健一さん:
私たちが一番心配するのは拉致問題の風化です

「拉致問題の風化」。この夏、それを感じた出来事があった。

7月15日、霧島市で4年ぶりに、霧島国分夏まつりが開かれた。市川さんは多くの人でにぎわう会場の一角で署名活動を行い、拉致問題解決への協力を訴えた。

しかし市川さんは、コロナ禍前に比べて立ち止まる人が少なくなったと感じていた。

拉致被害者・市川修一さんの兄 健一さん:
前からすると雰囲気が違う。呼びかけてもサッと通っていく。長い歳月だから今の若い人たちは拉致に関してあまり詳しく知らないのではないかな

「市川さんの助けになりたい」 高校生たちが動き出す

市川さんが拉致問題の風化を感じた一方で、会場で「署名活動にご協力よろしくお願いします!」と声を張り上げる高校生たちがいた。地元の国分中央高校の放送部員だ。

「市川さんの助けになりたい」「活動を体験して当事者の気持ちを学びたい」その思いから、今回初めて参加した。

霧島市内にある国分中央高校を訪ねると、放送部員たちがある動画を見ていた。

「頭から袋をかぶせられ、担がれていく途中で片方のサンダルが落ちたのでしょう」と語る修一さんの義姉(健一さんの妻)・龍子さんの映像や、吹上浜で取材する放送部員の姿が収められている。これは、2年前に先輩部員が制作したもので、市川さんの講演を中心に、拉致問題の経緯がまとめられていた。

今の生徒たちが拉致問題に関心を持ったのはこの動画がきっかけだった。

弟を奪われた市川さんがどのような思いで活動しているのか知りたいと、生徒たちは市川さんの自宅にも出向き、これまでの活動や45年にわたる苦しい胸の内を聞いた。

国分中央高校・放送部 内村伊織部長:
話を聞いていて震えが止まらなくて…。本当にそんなことがあっていいのかなという気持ちでいっぱいだった

市川さんはこの時のことをうれしそうに振り返った。

拉致被害者・市川修一さんの兄 健一さん:
うれしい、本当に。1人ひとり「質問していいですか」と言って質問してくれた。関心を持ってくれることは本当にありがたいですよ

当事者の話や署名活動を通して拉致問題に触れた放送部。今後、市川さんの活動などを記録し、拉致問題についての新たな動画を制作することにした。

国分中央高校・放送部 内村伊織部長:
鹿児島だけでなく県外の方が作品を見て、いろんな人たちに「(拉致問題を)風化させてはいけない。あってはならないこと」と伝わったらいい

拉致から45年。2023年で78歳となった市川さん、取材のたびに繰り返す言葉がある。

市川健一さん:
「拉致問題というそんなのがあったのかな」、「まだ解決してなかったんだ」と言われるようになったらもう解決どころではない、関心を持っていただき、オール日本で取り戻したいですよね

「拉致問題に関心を持ってほしい」、市川さんは強く訴え続ける。

(鹿児島テレビ)

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