外務省で中国語を専攻し、中国各所や関係部署を中心に活動する外交官を「チャイナスクール」と呼ぶ。フランス語やロシア語などそれぞれ専門はいるが、チャイナスクールは外務省内でも大きな勢力のひとつである。
この記事の画像(13枚)その幹部から「チャイナスクールは常に十字架を背負っている」と聞いたことがある。中国からは敵扱いされ、日本では親中のレッテルを貼られがちだ、という意味だ。
日中双方から厳しい眼を向けられることが多い彼らの現状を探る。
中国語が外交上の障害に?
中国で外交上のやりとりをする際の言語は当然中国語だ。中国側の意向を探り、日本の国益を確保するうえで言葉は大きな武器になる。ただ、最近ではそれが逆の効果をもたらすこともあるという。「中国語使いは中国側に逆に警戒される」(日中外交筋)というのだ。
中国当局にとっては
相手が中国語に堪能→うかつに中国語を話し、スキを見せられない→黙っている方が得
ということらしい。全てがそうではないにしても、統制が強まる中国の現状を考えればありうることだろう。
金杉憲治中国大使はチャイナスクールではない、いわゆる「ノンチャイナ」だが、中国側は「オープンな場で英語を使う金杉大使に対してリラックスして話していた」(別の外交筋)という。具体的な成果につながるかはともかく、相手とのコミュニケーションで中国語でない方が良い時もあるというのは皮肉な話だ。金杉大使は温厚で人当たりの良さに定評があるが、とある外交筋に言わせると「チャイナスクールは金杉大使のようにソフトに中国に接することは出来ない」そうだ。
強気に対峙するのか、言い方を選ぶのか。時と場合にもよるだろうが、中国との接し方は以前よりも難しさを増しているようだ。
離職するチャイナスクール
北京などの現場でチャイナスクールが活躍する場もかなり減っているようだ。「やり方ではなく、誰を知っているかが重要だ」(外交筋)と言われてきたように、かつては個人的な関係、コネを使って情報を取り、実態を把握するのが彼らの日常だったが、中国の内向き志向とともに、彼らの活動がやりにくくなっているからだ。
外交官に限らず、我々外国人と率直に話せる中国当局の人は以前より大きく減っている。当局にとっては、外国人と会うこと自体がリスクになっているとも言える。
チャイナスクールにとっては人と会う機会が減り、記者会見の翻訳や書類作成などの作業が続けば、モチベーションの低下にもつながる。実際に離職する人たちは後をたたず、懸念材料のひとつである。そんな実態を受けてチャイナスクールの待遇や今後を考える集まりが、外務省内で非公式に開催されたくらいだ。
人材の育成も課題だ。日中間の会談は、発言した後に通訳が訳す「逐語訳」がかつての通例だったが、中国側の要請もあり、同時通訳が主流になってきた。時間を節約し、少しでも多くの中身を話すため、というのがその理由だ。
しかし、発言を聞いてメモを取り、正確に訳す逐語訳とその場で瞬時に訳す同時通訳は根本的に違う。「中国側は発言内容が予め決まっているので準備しやすい」(外交筋)一方、政治家の発言に裁量がある日本では、その難易度も違う。中国語に限らないが、通常の業務だけでなく多様な能力が求められる昨今は、外交官にとってチャレンジングかつ大変な時代になったと言ってもいい。
応援団もまた中国人
外交官に限らず、中国で働く日本企業やメディアも、中国と相対する難しさを肌で感じている。
突如として変わる規則や、恣意的ともいえる政策にふりまわされるのが常だからだ。高止まりしている反中感情を前に企業の利益を確保し、偏見と戦い、ありのままの中国を報じることは困難で、徒労感すら覚える。夜の宴席ではそんな現状への愚痴や不満の声が業種を問わずよく聞かれる。
しかし、そんな日本人を支えてくれるのもまた、中国人である。人としての彼らの優しさや温かさは格別で、時間や手間を惜しまないその心遣いに感動を覚えた人も少なくないだろう。とある日本人学校の先生は中国を批判する知人に「実際に中国人と話したこともないのに悪口を言うな。実際に接して、交流してからものを言え」と諭したそうだ。
「中国政府と中国人を分けて考えろ」「『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』はやめろ」
垂前中国大使は口癖のようにこの言葉を繰り返していた。
“理解”と“好き嫌い”は別
チャイナスクールは何のために働いているのか。言わずもがな、国益の確保のためである。拘束された日本人の即時解放を働きかけ、中国への渡航ビザ免除の再開を求め、日本の海産物などの輸入再開に向けて協議している。最前線で中国と向き合う彼らこそ、中国に最も苦しめられ、悩まされている人たちとも言える。
その中国を「理解すること」は好き嫌いや良し悪しとは別の話だ。「理解」とは両国間にある各種懸案や問題を解決に導く、その手法のひとつで、相手をわからなければ適切な対応を取れないのは当たり前の話である。「中国と付き合わなくていい」というならともかく、経済的なつながりも含め「引っ越しの出来ない隣国」として付き合わざるを得ないなら、建設的かつ安定的な関係、ウィンウィンの関係を築くことは日本の国益にも資する。そのための「理解」だ。
知り合いのチャイナスクールは「中国を嫌いな人には何を言っても理解してもらえない」とこぼしつつ「我々は好き嫌いで外交をやっていない」と語った。
存在感増す中国とどう向き合うか
2008年夏の北京五輪を現場で取材する機会に恵まれた。当時の中国は「北京歓迎你(北京は皆さんを歓迎します)」という歌が各所で流れ、中国人も外国人も一緒に楽しみ、盛り上がろうとする熱気にあふれていた。
厳しい警備や管理は当時からあったが、そこには寛容さと奔放さも同居し、何より明るさがあった気がする。
その後も急速な成長を続け、中国はいまやアメリカと対峙する大国になった。BRICSをはじめグローバルサウスと呼ばれる途上国への働きかけも積極的で、世界での存在感は着実に増している。一方で経済の不透明感や国家の安定を重視する体制が社会をより閉鎖的にしていて、内外の不安や警戒につながっているのも事実だ。政治と切り離された市井の人々は自然体で、前を向き、今を楽しんでいるように見える。そんな中国と日本がどう向き合うかはまさに今の、喫緊の課題である。
私が接してきたノンチャイナも含む外交官は、高い志と人間らしさを兼ね備えた、個性的かつ魅力ある人が多い。したたかで様々な顔を持つ中国を相手に、国益の確保に邁進する日本外交の力に期待したい。