三笠宮家の彬子さまの留学記『赤と青のガウン』が異例のベストセラーとなっている。
Xで「大バズり」したこの留学記の執筆は、実は最愛の亡き父・寬仁さまとの”約束”だった。
この記事の画像(13枚)きょう6月6日は寬仁さまのお命日。逝去から12年を経て明かされた娘としての思いや、父娘のとっておきのエピソードをご紹介したい。
オックスフォード留学の2人の”先輩”
2カ月足らずで文庫本が10万部を超え、出版不況にあって異例のベストセラーとなっている『赤と青のガウン』。
書中には、オックスフォード大学留学における皇室での”先輩”として、同じマートンカレッジで学ばれた天皇陛下と父・寬仁さまが登場する。
陛下が平成5年に出版された留学記『テムズとともにー英国の二年間』は去年新装復刊し、10万部の大ヒット。今書店ではこの『テムズとともに』と『赤と青のガウン』が並んで平積みされている。
陛下と彬子さまとのご縁については、また後日改めてご紹介するとして、今回は留学そのものも、留学記の出版も、すべてのきっかけを作られた”ひげの殿下””トモさん”こと、父・寬仁さまについて記したい。
留学記出版は父との約束「皇族として成果報告の義務がある」
彬子さまは幼い頃から、「おまえはオックスフォードに行くんだ」と呪文のように寛仁さまに言われて育ったという。筆者が6月3日にインタビューさせて頂いた際、彬子さまは改めてそのエピソードに触れられた。
「ご自身(寬仁さま)が一番お楽しかったお時間がオックスフォードに留学されていた時で、それを経験させたいと思って下さっていたのだと思います」
父の計画通り、オックスフォード大学に留学された彬子さま。
深く掘り下げたい研究テーマを見つけ、予定を変更し、博士課程まで進みたいと決めた彬子さまに対し、寬仁さまは留学延長を認める代わりに「留学記」を出すことを条件の一つとして課されたそうだ。
「長期間海外に出て公務をしない以上、それを支えてくださった国民の皆さまに対して、皇族としてきちんとその成果を報告する義務があると考えておられたからである」(『赤と青のガウン』より)
「父は極度のアナログ」「”Xでバズる”は『意味がわからねえ』とおっしゃると思う」
実は寬仁さまもオックスフォード留学について、25歳の時に留学記『トモさんのえげれす留学』を出版されている。
父娘揃って留学記を出版することも、父の夢だったそうだ。
12年前のきょう、6月6日に66歳で亡くなり、娘の留学記出版を見届けることはできなかった”トモさん”。時を経て「大バズり」している状況を空の上でどのように見守られているのだろうか。彬子さまに伺ってみた。
「父は極度のアナログ人間でいらっしゃったので、きっと”Xでバズる”みたいな用語は「意味がわからねえ」とおっしゃるのではないかと思います」
アナログでパソコンを使わず、全て手書きだった父。懐かしそうな表情を浮かべたあと、彬子さまはユーモアたっぷりにこう述べられた。
「留学記に関しては(父の『えげれす留学』の)販売部数を超えましたとご報告できるかなと思います」
「うちの彬子は研究とやらに夢中で」父と娘の素敵な関係性
20年ほど前、記者は今回インタビューさせて頂いた三笠宮東邸の同じお部屋で、寬仁さまにお目にかかったことがある。当時彬子さまは1度目のオックスフォード大留学中だった。
「うちの彬子は研究とやらに夢中になっている。何の研究なのか俺にはちんぷんかんぷんだが、俺とは違って勉強が好きみたいでね」
にやっと微笑まれたその表情から、言葉とは裏腹に、研究に打ち込む娘を誇らしく思っていらっしゃることがひしひしと伝わってきた。
父と娘の素敵な関係性。
きっと、”大バズり”で販売部数が”父超え”した状況を、「意味がわからねえ」とつぶやきながら”トモさんスマイル”でうれしそうに見守っていらっしゃることだろう。
留学記のベースは父のファイル「男女交際は思う存分」
実は彬子さまへのインタビューは11年ぶりだった。ちょうど11年前、寬仁さまの一周忌にあたり、同じお部屋で彬子さまにお話を伺った時のこと。
彬子さまが「極度のアナログ人間」と評された寬仁さまは、留学中の娘とのやりとりももっぱら手紙。手紙で意見を交わし合いけんかが続いた時期もおありだったという。
彬子さまが特別に見せてくださった分厚いファイルには、彬子さまからの手紙とご自分が投函した手紙のコピーが全てまとめられていた。いずれ出版する留学記に役立つだろうの思いだったという。
「ほんとうに細かくて、計画魔だった父らしい置き土産である」(『赤と青のガウン』より)
そして、そのファイルの最初のページに入っていたのは、A4用紙4枚に及ぶ父から娘への留学中の心得24箇条。
イギリスの風習や、英語の上達のポイントなど、ご自身の経験による、留学生活における心得がぎっしりと記されていた。
中には、「男女交際は思う存分実施されたし」「”ホレタ・ハレタ”は何度でも結構だが現地にて決定をするなかれ。必ず我が国に戻って再度考慮することを前提にされたし」といったユニークかつ親心を感じる項目も。
そして、オックスフォード大学に学ばれた陛下を始め、歴代の皇族方に恥じない立派な留学生活を送るよう、皇族としての自覚も強く促されていた。
論文作成の苦労、側衛官のエピソード、面白すぎるプリンセスの日常・・・彬子さまの綴られた留学記ににじむ温かさや凜とした佇まいは、父の強く深い愛情とユーモアによるものでもあるのだろう。
11年前は座れなかった”父の席”「バトンを受け継いだありがたさと畏れ多さ」
11年前のインタビューの際は、生前寬仁さまが座っていらした椅子を見つめ、「この席は父がいつも座られていて、なかなか座る気持ちになれなくて」とおっしゃっていた。
父の死を受け止めきれず、涙がこみあげる一方、在りし日の”トモさん”のエピソードに話題が及ぶと、彬子さまも記者も思わずクスっと笑いがこぼれる場面もあった。
あれから11年。大変なこともたくさんあり、乗り越えて来られたであろう彬子さまは、寬仁さまの椅子に座り、終始自然な笑顔で思いを語られていた。
彬子さまのお話はご著書同様に、多様なエピソードとユーモアに富み、マイクに不要な声が入らないよう、記者もカメラマンも必死で笑いをのみ込んでいた。
寬仁さまから受け継いだ様々な行事と、彬子さまならではの活動に取り組まれる多忙な日々。1時間に及ぶインタビューの最後、彬子さまは今の心境をこう明かされた。
「皇族であることの重みは、歳を重ねるごとにより強く感じるようになったというところがございます」「バトンを引き継がせていただいていることのありがたさと畏れ多さをより強く感じるようになり、しっかり受け止めて伝えていかなければいけないと日々感じるようになった気が致します」