2006年4月に千葉県から創業130年に上る能登・和倉温泉の老舗旅館「多田屋」に嫁いだ多田弥生さん(46)。

会社員の家庭に生まれ育ち、看護師として働いていた弥生さんが、「花嫁のれん」をくぐり若女将になってからの苦労や喜びを、フジテレビ「ザ・ノンフィクション」はこれまで7回にわたって放送してきた。

そんな若女将18年目の弥生さんを2024年元日、かつてない大きな試練が襲った。言わずと知れた能登半島地震だ。

2007年の能登半島沖地震以来2度目の試練といえるが、その被害は1度目とは比べものにならない。

しかし、そんな中でも、夫を信じて前に進もうとする弥生さんの長い闘いの始まりを取材した。

能登半島地震発生当日

2024年1月1日。弥生さんは自宅で家族とおせち料理に箸をのばした後、旅館の事務所に向かった。

午後4時ごろだった。この日も旅館は満館。正月をゆったりと過ごそうと、およそ150人の宿泊客が訪れていた。

見上げると、冬の澄んだ青空が広がっていた。「元日からこんなにいい天気なんて、何か起こりそう…」。そんな思いがふと頭によぎった。

そして、そんな弥生さんの予感は、残念な形で的中することになる。

地震発生時の「多田屋」
地震発生時の「多田屋」
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前触れは午後4時6分、最大震度5強の地震だった。旅館がある石川県七尾市の震度は3。ここ数年、能登半島では地震が頻発していた。

弥生さんは「いつもどおり、すぐに収まるかな」と思ったが、一方で揺れている時間がいつもより長いのでは、とも感じた。

「揺れが収まったら、館内放送を流さないと…」

そう考え始めた矢先、今度はさっきとは比べものにならない強烈な揺れに見舞われた。ドンっと下から突き上げる、これまでに経験したことがないような揺れだった。とても立っていられない。

最大震度7の能登半島地震の発生だ。

慌てて事務所から外に飛び出した。スタッフや宿泊客の悲鳴が次々と耳に入ってくる。ミシッ、ミシミシミシッという音がする方を見ると、旅館が大きく揺れているのがはっきりわかった。瓦も次々と落ちてきている。

弥生さんは、外に出てきた宿泊客に向かって「建物から離れて!」と必死に叫んだ。建物が倒れ、下敷きになってしまうことを恐れたのだ。

そして、旅館のすぐそばにある自宅に走った。

94歳の大女将の様子が心配だった。自宅に入ると、ガラスの破片が飛び散った部屋の中、大女将がうずくまって揺れに耐えている姿が見えた。弥生さんは、分厚い布団で大女将を包むと、義父に向かって「おばあちゃんをお願い!」と叫び、踵を返した。

とにかく宿泊客のことが心配だった。

旅館に戻ると、スタッフが宿泊客に声をかけながら、大駐車場に誘導していた。浴衣1枚で避難してきた人も多く、誰もが寒さと恐怖に震えていた。大津波警報が発表されたとの情報も入った。

警報を聞いたためか、草履のまま大駐車場を見下ろす裏山に登る人たちもいた。しかし、裏山はいつ崩れるかわからない。スタッフが必死で降りてくるように呼びかける。

宿泊客が集まっていた正面ロビーと大駐車場はビルの4階に相当する高さに位置していた。とりあえず津波の心配はなさそうだ。

その間も、何度も何度も地震は起こり続けていた。

暖を取るための布団などをスタッフが駐車場に運び出す姿が見えた。声をかけ合いながら、混乱の中でも自主的に動いている。「なんて頼もしいんだろう」。弥生さんは、心の底から感謝した。

しかし、自分は何をしていいのか、わからない。「どうしよう、どうしよう。落ち着け、落ち着け」。自分に言い聞かせる。

やがて、近くの和倉小学校が緊急の避難所として開放されたことを小学校のPTAのLINEで知る。「若女将、バスを出して和倉小学校に誘導しましょう」。スタッフの声を受け、バスによる宿泊客のピストン輸送を行う。同時に、布団や物資なども避難所に運び込んだ。

避難所には、近隣の旅館の宿泊客や地元の住民など約1400人以上が集まっていた。地震発生からおよそ2時間後、弥生さんは宿泊客とスタッフ全員の無事を確認することができ、安堵した。

まさに「奇跡」だと感じていた。

取材班訪問…

しかし、本当の試練が始まったのはその後だった。

地震発生からおよそ2週間後。ザ・ノンフィクション取材班は多田屋を訪れた。

地震で損壊した館内
地震で損壊した館内

7年ぶりの多田屋は激しく被災していた。

久々に会う弥生さんは健太郎社長や居合わせた従業員さんたちと、取材班をいつものような笑顔で迎えてくれた。懐かしさで嬉しく感じたが、無理しているのだろうと思うと、複雑な気持ちになった。

弥生さん、弥生さんの夫である社長の多田健太郎さん、施設管理課の古河朋明さんの3人の案内で被災した建物の中を歩く。本館から新館につながる継ぎ目を境に建物自体が沈み、至る所に亀裂が入っていた。亀裂の隙間からは青空がのぞく。

天井も落ち、あちこちの床が歪んでいる。特に、七尾湾に面した自慢の大浴場や客室の露天風呂の状況は無惨なものだった。事務所は壁が落ち、客室は慌てて避難した宿泊客の痕跡がリアルに残っていた。

館内を歩けば歩くほど、「営業再開」への道のりは気が遠くなるほど遠いのだという現実を、私たちも思い知らされた。

「どうやって直しましょう…」

途方に暮れたのか、弥生さんが、冗談っぽくつぶやいた。

山積みの問題、スタッフの雇用をどうする?

実際、営業再開に向け、問題は山積みだ。

修繕程度で済むのか?
再建のための費用は?
国や県はどれぐらい援助してくれるのか?

現時点ではわからないことだらけだ。

若女将の弥生さん
若女将の弥生さん

そして、弥生さんが何よりも気にしていたのが、営業ができない間、スタッフ70人の雇用をどうすればよいのか、ということだった。「雇用調整助成金」を利用したとしても、これまでのような給与を支払うことはとてもできそうにない。

一方で、地震発生から現在に至るまでのスタッフの頑張りは目を見張るものがあった。そんな姿を見るたびに、弥生さんは「これからもこのスタッフと頑張って多田屋を復活させたい」と強く思った。

1月末、全従業員に今後の雇用条件を提示した。営業ができない以上、良い条件を提示できるわけもなかった。

「いったいこんな条件で何人が残ってくれるのだろうか?」

しかし、これまで(2024年2月末現在)、退職を希望したスタッフは1人もいない。

岐阜出身で客室係の水野美里さんは「多田屋から見える能登の景色、そして職場の仲間が大好きだから、辞めることは考えられません」と話し、山梨出身の客室係の土屋斎さんは「社長の将来的ビジョンや夢に強く共感して入社しました。それを実現するために辞めたくない」と語った。

弥生さんは彼らの言葉を聞き、「思いを共有できている」と嬉しく思った。

そんな弥生さんの横で、夫である健太郎さんは力強く語った。「不安が全く無いといえば嘘になる。でも再開できる自信はあります」

健太郎さんのそんな言葉を聞いて、弥生さんは18年前、「花嫁のれん」をくぐった日に心に誓ったことを思い出した。「私は経営のことは分からない。だけど、健太郎さんのことは絶対的に信じていこう」。今こそ、その時だと思った。

「もしかしたら、この先、辞めていく人も出てくるかもしれない。けれど、再開したらきっとみんな戻って来ると信じているから、何も心配していません。だから今はやれることをやるだけです」

 

この記事はフジテレビ「ザ・ノンフィクション」とYahoo!ニュース ドキュメンタリーの共同連携企画です。
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2011年の東日本大震災から、何かが変わった。その何かがこの国の行方を左右する。その「何か」を探るため、「ザ・ノンフィクション」はミクロの視点からアプローチします。普通の人々から著名人まで、その人間関係や生き方に焦点をあて、人の心と社会を描き続けていきます。