2011年3月に発生した東日本大震災から13年。

絵理奈さん(当時12歳)は福島第一原子力発電所から半径20km圏内にある福島県南相馬市立小高小学校であの日を迎えた。

被曝を避けるため、家族と共に避難所や親戚の家を転々とし、卒業式を間近に控えたクラスメイトとも会えなくなった。さらにその後、福島県二本松市、さらには埼玉県へと、事故から1年あまりで8回も移動することになる。

そして25歳になった絵理奈さんは今、都内で一人暮らしをしながらシステムエンジニアとして忙しい日々を送るが、「福島を忘れたことはない」と語る。

放射性物質に翻弄された日々を振り返りながら、年月を経て新たに抱く思いを聞いた。

放射能から逃げ惑い、友と引き裂かれ… 心で泣いた日々

「私たちが使っていた電気じゃないのに、何でそれのために、こんなにいろんな所に行ったりしないといけないのかなって。やっぱり疲れるかな…」

取材当時12歳の少女はカメラの前でこう語った。

涙ながらに思いを語る絵理奈さん
涙ながらに思いを語る絵理奈さん
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2011年3月11日午後2時46分。

卒業式を一週間後に控えていた絵理奈さんは、6年生の教室でクラスメイトとの最後の日々を噛み締めるように過ごしていた。すると突如、巨大な揺れに襲われた。

「地震だ!」

クラスメイトたちは各々机の下に潜り込み、冷静に揺れが収まるのを待った。「ヤベェ、ヤベェ」「今日遊ぶ予定だったけど、無理じゃね?」。そんな会話が聞こえた。

自宅に戻ると、倉庫が半壊したり水道が止まったりしていたが、住めない状態ではなかった。両親と妹、祖父母も無事だった。その夜は「明日は片付けだなぁ」と言いながら眠りについた。

しかし、翌朝起きると、父親から「原発で事故があったらしい。避難するから荷物をまとめなさい」と言われ驚いた。すぐに大切な物だけをバッグに詰め、家族と共に家を飛び出した。友達も近所の人たちも、皆散り散りに逃げていった。戻ることは許されなかった。

事故から1カ月間、絵理奈さん一家は確たる情報もない中、被曝の恐怖から逃れるようにして避難所や親戚の家を転々とした。

2011年4月、絵理奈さんの中学入学に合わせ、両親はひとまず原発から50km以上離れた福島県二本松市の公営団地に避難することを決める。この時点ですでに6カ所目だった。

二本松市の中学ではたくさんの友達ができた。中でも同じクラスの萌祐(もゆ)さんは、どんな悩みも素直に打ち明けられるソウルメイトのような存在。毎日たくさんの時間を彼女と過ごし、語り合った。

しかし、二本松市内でも放射線量の高い所があったため、市内の別のアパートに引っ越すなど、一家は落ち着かない日々を過ごした。

さらにその夏には原子力規制委員会が、人体への影響が最も懸念される放射性物質の一つとされる『セシウム137の濃度分布マップ』を発表し、二本松市にもその影響が及んでいることが分かった。

両親は親戚のいる埼玉県への避難を検討し始めた。

当時、福島から他県へ避難した子どもたちが、避難先の学校でいじめに遭うというニュースが相次いでいた。両親は、埼玉に行くと絵理奈さんと妹がいじめられるかもしれないと懸念したが、「それでも、少しでも放射能の少ない場所に子どもたちを行かせたい」と避難を決断。仕事のため、父親だけは福島に残った。

2012年1月。

埼玉へ引っ越す日、萌祐さんが絵理奈さんのアパートにプレゼントを届けに来た。母親は「萌祐ちゃんの家まで送っておいで」と二人に最後の時間を与えてくれた。暮れなずむ町を歩きながら、二人はケラケラと笑い合っていつも通りのおしゃべりを続けた。

萌祐さんの家までの30分間はあっという間だった。

萌祐さんが寂しそうに口を開く。「また明日、会えないもんね…。終わりだよ。これで『さよなら』って言ったら終わりだよ」。絵理奈さんは少しずつ遠ざかりながら、そんな萌祐さんをただニコニコと見つめた。「じゃあね」と萌祐さんが別れの言葉を口にすると、さらに続けた。

「私、ここで見てるから。見えなくなるまで」

夕陽が山の稜線に沈み、お互いの顔が見えなくなるまで、二人はずっと手を振り続けた。

今なら分かる両親の決断それでも「福島に帰りたい」

絵理奈さん一家が埼玉県に居を落ち着けるまでの1年あまりに、実に8回移動していた。

「小高の家から逃げるときは、まさかこんなに長期になるとは思っていなかったんです」

絵理奈さんは振り返る。

「後から知ったのですが、震災当日(11日)の南相馬市小高区では、原子力緊急事態宣言が出たことはもちろん、原発が大変なことになっているという情報は一切ありませんでした。SNSも今ほど発達していませんでしたし、テレビはローカル放送で津波の被害ばかりを伝えていました。近隣の双葉町、浪江町、大熊町は、役場の指示で早い段階から避難を開始していたそうです。

私たち一家は、原発関連の会社に勤める父の知人から事故の情報を聞き、12日朝に避難することができましたが、テレビや防災無線で1号機の水素爆発(12日午後3時36分)を知ってから避難した小高の人たちの中には、荷物をまとめることすらできなかった人もたくさんいたんです」

「ただ、私も家族も原発が爆発したらどうなるかなんて全く想像できていませんでした。半信半疑で『とりあえず避難しよう』といった感じでした。私は『中学の入学式もあるから、きっと1カ月もしないうちに家に帰れるだろう』と軽く考えていました」

実際には、絵理奈さんが生まれ育った南相馬市の我が家に再び足を踏み入れることができたのは、それから1年半後の2012年9月のことだった。警戒区域が見直され、南相馬市小高区への立ち入りが時間制限付きで許されたのだった。

福島から離れることなど想像もしていなかった絵理奈さんにとって、二本松市の中学校で出会った親友・萌祐さんとの別れは、痛切な思い出として胸に刻み込まれている。

「二本松には9カ月しかいられなかったけど、友達がたくさんできたし、本当に大好きな場所でした。ここでずっと暮らしていくと思っていたので、両親が埼玉に逃げると決めた時、心の中は『嫌だ。何で?』ばかり。一方で、怖いという気持ちも同時にあったんです。ここにいたいけど怖い、みたいな。

その頃には、放射能は目には見えないけれど恐ろしいものだということがわかってきていた。両親は毎晩遅くまで話し合っていたし、私と妹の安全を考えてのことだったので、強く反対できませんでした。その後、埼玉の中学に転校しましたが、3学期からの転入だったので馴染むことができなくて…。

懐かしい小高の風景や、萌祐ちゃんたちとの楽しい日々を思い出しては、ぼんやりと過ごしていたように思います」

そんな絵理奈さんも、中学3年生になる頃には埼玉の生活に慣れてきて友達も増え、高校は埼玉の公立高校に進み、充実した3年間を送った。その後も神奈川県内にある大学に進学し、横浜のI T関連会社に就職。今ではすっかり都会の生活に馴染んでいるようだ。

「大人になった今、当時の両親の決断の理由がよく分かるようになりました。外部被曝と内部被曝の違いとか、体内に蓄積された放射性物質の影響が今後どのような形で出てくるかわからない、といった知識も増え、本当に恐ろしい状況の中で私たちは逃げ惑っていたんだということがわかってきました。私が親の立場でも、子どもの未来のために少しでもリスクを減らす判断をしたと思います」

「今思えば、子どもは環境が変わっても順応するチャンスがたくさんあります。小高で生まれ育った両親や祖父母の方が失うものも大きかったし、私たちよりずっとつらい思いをしてきたと思います。我が子の安全のために苦しい決断をしてくれた両親には、本当に感謝しています」

その一方で「それでもやっぱり福島に帰りたかった」という思いは消えなかったという。

「高校受験、大学受験と、人生の節目を迎える度に『福島に帰りたい』という思いが頭をもたげてくるんです。高校受験の時は、『お父さんが暮らしている南相馬の仮設住宅に一緒に住んで、原町高校(南相馬市)に行きたい』と言って母を困らせました。自宅がある小高はまだ放射線量が高く、立ち入りはできても宿泊は禁止されていました。復興関連の仕事で忙しい父は単身赴任生活の負担も大きく、頭の中では『今は帰れない。これ以上わがまま言っちゃダメだ』と分かっていました。

でも、避難先の学校に馴染めず福島に帰る同級生もいたし、いろんな情報や思いがぐるぐると渦を巻くようで、夜中に自分の部屋で泣いてしまうこともありました」

「大学では生物資源科学を専攻しました。福島の豊かな自然が大好きだから、自然に役立つことを学びたいという思いがありました。そして満を持して福島で就職する、と決めていたのですが、コロナ禍になってしまって…。

当時は県外に移動することすら白い目で見られるような状況だったので、福島で就職活動をすることができず、泣く泣く諦めました」

ふるさと小高の変化…「心は繋がっている」

ゴーストタウンと化していた南相馬市小高区の避難指示は、原発事故から5年4カ月が経過した2016年7月に解除された。住民の帰還は徐々に進み、新たに県外から転居してくる若い世代もいる。

2020年 南相馬市小高地区を訪れた絵理奈さん
2020年 南相馬市小高地区を訪れた絵理奈さん

避難指示が解除されて以降、絵理奈さんは毎年お盆の時期に小高に帰り、墓参りや自宅の掃除などを手伝っている。コロナ禍の3年間は行けなかったが、昨年夏に久しぶりに小高に帰ると、変化を感じた。 

「新しいお店ができていたり、以前あったお店が再開していたり、少し人が増えて賑やかになったように感じました。私の記憶の中にある小高ではないけれど、新しい小高ができつつあるようでした。そこで頑張っている人たちが頼もしくて、ありがたくて…。『小高がなくならなくて本当によかった』と思いました。

私は、町を流れる小高川や相馬野馬追(そうまのまおい)の舞台の小高神社とか、『ザ・小高』な風景を見るだけですごく安心するんです。幼少期からお世話になっているお寺のご夫婦が暖かく迎えてくれて一緒にお茶を立てたりして、『ああ、やっぱり故郷はいいな』と心からホッとする時間を過ごすことができました。

小高に住むことに決めた人、離れることにした人、いろんな事情で小高に住む選択肢しかなかった人もいます。どれも考え抜いた末に決めたことだと思うし、どれが正解でどれが間違いとかではないと思っています。震災前の小高を知る人たちが、どの選択をしたかで責めたり責められたりすることのないように願っています」

親友・萌祐さんは現在、関西で消防士として活躍している。

会う機会は少ないが、誕生日には必ず「おめでとう」のメッセージを送り合い、簡単な近況報告をする。長く連絡を取っていなくても、不思議と気まずくなることはない。

毎年10月には二本松に帰り、「ちょうちん祭り」で中学時代の友人たちと会うのが恒例だ。9カ月間しかいなかったのに、まるで一緒に卒業したかのように感じる。絵理奈さんにとって小高と並ぶもう一つの故郷だ。

「子どもの頃、福島はとてつもなく遠くて、一度離れてしまったらもう戻れないと感じていました。でも大人になって、新幹線や車で意外と簡単に帰れることが分かってくると、普段は離れていても心は繋がっているんだと思えるようになりました」

能登地震の被災者への思い

今、絵理奈さんは能登地震で被災した人たちに思いを寄せる。 

「家族や家を失ってつらい悲しい思いをしている人がたくさんいると思います。避難生活の辛さは私も身に染みて分かります。

でも、私は『この先起きることは、悪いことばかりじゃない』ということを伝えたい。原発事故がなければ、私は今も小高で幸せに暮らしていたかもしれない。今でも、取り戻せない時間に思いを馳せることはあります。

ですが、二本松にも、埼玉にも、避難したからこそ出会えた人がたくさんいるのも事実です。どんなことがあっても人生は続いていく。震災をきっかけに変わっていくこと全てが、決して悪いことばかりじゃないと思います。『この先、新しい出会いや楽しいことも絶対にあるから大丈夫ですよ』と伝えたいです」

最後に今後の目標を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「SEの仕事はパソコンがあればどこでもできるので、福島に帰って結婚して、お母さんになるのが夢です。かなうといいな…」

かつて故郷を失い涙を流した少女は、変わらぬ福島への想いを胸にしっかりと前を向いて歩いている。
 

ザ・ノンフィクション
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2011年の東日本大震災から、何かが変わった。その何かがこの国の行方を左右する。その「何か」を探るため、「ザ・ノンフィクション」はミクロの視点からアプローチします。普通の人々から著名人まで、その人間関係や生き方に焦点をあて、人の心と社会を描き続けていきます。