石川・輪島市に約450年伝わる県指定の無形民俗文化財“御陣乗(ごじんじょ)太鼓”。被災しながらも、避難先で御陣乗太鼓の練習を再開し、復興を願う能登の姿を伝えようとする、打ち手の男性に密着した。
450年の歴史を持つ“御陣乗太鼓”
町の男たちに伝わる御陣乗太鼓の太鼓。御陣乗太鼓の歴史はさかのぼること約450年前にある。
この記事の画像(14枚)木の皮の面をかぶり海藻を頭につけ、夜陰にまぎれて太鼓を打ちならすことで、上杉謙信の軍勢を追い払ったのが始まりとされている。
観衆からは「打ち手の人は一生懸命、魂を込めて打っている」と熱い声も上がり、地元の子どもも「かっこよかった!」と大興奮、「帰るとまねをしてなかなか寝ない」と言う親の声が聞かれるほどだ。
住民たちが無事を祈っていた太鼓たち
“御陣乗太鼓”が生まれたのは、能登半島の外浦にある人口約180人の輪島市名舟町。
美しい海を望むことができたこの町も、地震ですっかり姿を変えてしまった。道路の寸断で一時、孤立集落となったこの地区。町の人々は集団で避難し、今はひっそりとしている。
御陣乗太鼓の打ち手である江尻浩幸さんも、今は輪島を離れて避難しているが、残された太鼓や面を運び出そうと集会所に戻った。住民たちが祈っていた太鼓は無事だった。
御陣乗太鼓の打ち手である江尻浩幸さん:
よう頑張った。地震で破れるようやったらだめ。こんだけパンパンに張っとるし
毎日、能登の旅館で太鼓を披露し、国の内外で数々の大舞台も経験してきた御陣乗太鼓のメンバー。壁にかけられたカレンダーには、公演のスケジュールがぎっしりと埋まっていた。
御陣乗太鼓の打ち手・江尻浩幸さん:
出演は、2023年12月30日が最後やったってことや。そっからなくなった
1月1日を境に、江尻さんにとって当たり前だった名舟の音が、日常から失われた。
御陣乗太鼓を叩くために選んだ本業
名舟町から100km以上離れた野々市市に、妻と息子とともに避難した江尻さん。お気に入りだという梅が咲いている公園を案内してくれた。
御陣乗太鼓の打ち手・江尻浩幸さん:
名舟って桜の木もないし、本当に花のない町。だから珍しい。たまに花見るのもいいなとは思った…海のほうがいいけどね。波の花あるし
新しい住まいで再開したのは本業の“輪島塗”だ。「考えとったってしゃあない。職人は仕事して収入を得る、今は収入がゼロやから」と前へ進んだ。
御陣乗太鼓の打ち手・江尻浩幸さん:
1カ月、漆を触らんかったら手がきれいになった。でも、今ここに来て始めたら、おそらくもう3日もすればまた真っ黒になる。うれしいっていうか、仕事しとる手やなってなってくる
一度はふるさとを離れ、京都の料理店で腕を振るっていた江尻さん。それでも名舟に戻り、地場産業である輪島塗の職人となったのは、子どものころから親しんできた御陣乗太鼓を叩きたかったからだ。
御陣乗太鼓の打ち手・江尻浩幸さん:
御陣乗太鼓を叩いていれば、どこにでも行ける、人の立てない舞台に行けるっちゅうのが一番の魅力やったんやないかな。片田舎に住んどってカーネギーホールとか誰が行かれる?
徐々に動き出した江尻さんの新しい生活。そして、御陣乗太鼓も動き始めた。
久しぶりに手にするバチは「重てぇ…」
この日、白山市にある「浅野太鼓楽器店」に江尻さんはいた。ここは名舟から運び出された太鼓が保管されている場所だ。
地震後、初めて練習が行われることになり、バラバラになっていた仲間たちが集まった。久しぶりに手にするバチは重たかった。
北陸新幹線が県内全線開業する3月16日に、金沢駅で御陣乗太鼓を披露する。この1カ月の思いをバチに込め、響かせる勇壮な音。面を付けずとも、表情は見ている人を圧倒する気迫にあふれていた。
たった1回の通しに「体力落ちとる」「もう無理かもしれん」と息を上げるメンバーだったが、「きょうやって、これから叩けるなって自信になった」と笑顔を見せた。
御陣乗太鼓の打ち手・江尻浩幸さん:
もう歳やから、まだ叩けたって。やっぱり負けないっていう気持ちだけやわね、見せてあげたい
17年前の能登半島地震でも能登の盛り上げ役を担った御陣乗太鼓。復興への願いを込め、能登の誇りを響かせる。
(石川テレビ)