89歳の男性が60年にわたって守り続けてきた、仙台に残る唯一の屋台がある。師走の寒さの中、その屋台はラーメンやおでんだけでなく、人の温かさにあふれている。
世代超えにぎわう屋台
仙台駅から歩いて5分。杜の都仙台を象徴する通りの一つ「青葉通」。高層ビルが立ち並び、昼間は多くのビジネスマンが行き交うこの場所に、その屋台は姿を現す。
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屋台の名前は「大分軒」。名物は、自家製おでんとどこか懐かしさを感じさせるラーメン。一段と厳しい寒さとなった12月のこの日。
屋台は世代を超えて、多くの人でにぎわいをみせていた。
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店主の内田菊治さんは御年89歳。この場所で60年間変わらず屋台の営業を続けている。
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内田さんが屋台を続ける理由は「人とのつながり」。数十年通うという常連からこの日が初めてという一見の客まで、おでんの匂いと内田さんの人柄に惹かれ、のれんをくぐる。
常連だという女性客に大分軒の魅力について聞いてみると「空間の雰囲気と内田さんのキャラクター」だと話し、内田さんの話を聞くのが楽しみだと話す。
客は、寒さをまぎらわすようにおでんをほおばり、熱燗で流し込む。屋台は笑顔であふれていた。
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大分の男性が仙台で屋台始めたワケ
30歳の時、ふるさとの大分県の水産高校の指導員を辞め、仙台を訪れた内田さん。
たまたま立ち寄った屋台の店主との何気ない会話が、その後の人生を変えるきっかけになった。
![20代前半の頃の内田さん](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/e/a/700mw/img_ea759f9cf1b973cbc3ede419b2caceac156043.jpg)
「飲んでるうちにいろんな話になり、店主が屋台を買ってくれないかな、誰か買う人いないかなと言っていた。当時は今みたいに規制がなかったから、そのときは誰が買ってもよかった」
(大分軒店主・内田菊治さん)
この店主と意気投合し、内田さんは当時のサラリーマンの平均月給ほどの約3万円で屋台を譲り受けた。縁もゆかりもない仙台で一から屋台を始めることに。それは東京オリンピックが開かれた1964年のことだった。
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「営業は一代限り」屋台は1軒に
最盛期は、仙台の街にも60軒から70軒ほどの屋台があったと話す内田さん。当時仙台の街は、国内有数の屋台街だった。一方その翌年、行政が道路の管理や食品衛生の観点から、当時出店していた屋台に限り、道路の使用を許可し新たな屋台出店を禁止に。「営業は一代限り」とする通達を出した。
結果、それぞれの屋台の店主の高齢化に伴い、仙台の夜の街に並ぶ屋台は1軒、また1軒と減っていき、10年ほど前には、ついに内田さんだけとなった。
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そんな内田さんも来年1月で90歳。体力とも相談しつつ、雨や雪の日は避けて春と秋に、週2回ほど不定期で屋台を出している。
もちろん、これまですべてが順風満帆だったわけではない。2021年11月には外出先で転倒し、左手首を骨折するけがをした内田さん。店をたたむことも頭をよぎった。それでも屋台を楽しみにしてくれる客の存在。そして半世紀以上にわたり屋台に立ち続けてきた内田さんのプライドが、再び自身を突き動かす原動力となった。
「きれいごとで言えば屋台は生きがいなのかな。男から仕事を取ったら何もない」
(大分軒店主・内田菊治さん)
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取材したこの日は、2023年最後の営業日。いつものように、内田さんは、妻のタイ子さんと準備を進めていく。「今後営業を続けるかは、この人(タイ子さん)次第」と話す内田さん。二人三脚で培ってきた絆があるからこそ、屋台を続けてこられた。
![自宅でおでんの仕込みをする妻・タイ子さん](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/d/d/700mw/img_dd62a7f74c5e7bcf203883947b25ca55195452.jpg)
屋台は家からバイクでけん引し運ぶ。
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慣れ親しんだ青葉通に到着するやいなや、内田さんはトレードマークのハチマキをまき、一気に営業モードに。
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1時間ほどかかる重労働の屋台の組み立ては一人で行う。「誰かに手伝ってもらうと足手まとい。うまくいかない」と言いながら、手際よく組み立てていった。
![30年以上使用しているという年季の入った屋台](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/a/6/700mw/img_a6186092c6b0da925cbf0111418ce6da284098.jpg)
開店時間は「日が暮れたら」
一層寒さも厳しくなった2023年最後の営業日。温かい灯りに導かれるように、ラーメンやおでん、そして内田さんを求めて、多くの人が屋台を訪れる。
![午後6時過ぎには屋台は満員に](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/e/8/700mw/img_e8a92419a20a4fce3038217e97253254251202.jpg)
利用客の多くが、口をそろえて話すことがある。それは「いつも親方の話を聞くことが楽しみ」だということ。「何も特別なことは話していない」と謙遜する内田さん。それでも60年間屋台に立ち続けてきた経験からにじみ出る人柄とその言葉は、多くの人を惹きつけてやまない。友人や同僚、家族や恋人など様々な関係の人が屋台を訪れるが、多くの人が内田さんとの会話を楽しみにしている。
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では、内田さんにとって屋台を訪れる客たちはどんな存在なのか。内田さんは「私にとって宝。お互いに信頼しているというか…。話していると楽しいし、悪い人はうちに一人も来ない」と照れくさそうに話した。
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大分出身の1人の男性が、60年間屋台に立ち続け積み重ねてきた歴史。それはいつしか仙台の文化となり、人と人がつながる大切な場所になっていた。
最後に内田さんに今年1年を振り返ってもらった。
「楽しい1年だったなと思うね。病気もしないで…。先のことは考えていない。その時その時で自分が良ければそれでいい。生きるだけ生きた!」
(大分軒店主・内田菊治さん)
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来年もまた、変わらないこの場所で。かけがえのない仙台の大切な風景が見られることを願って。
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(仙台放送)