KTNに残るアーカイブ映像とともに長崎の歴史を振り返る「タイムトラベル長崎」。現在も存続問題で揺れる松山陸上競技場(長崎市営陸上競技場)でのできごとを振り返る。長崎原爆の爆心地にほど近いこの場所に特別な思いを持つ被爆者もいた。
ローマ教皇の歓迎集会やKTN主催のイベントも
長崎市の松山陸上競技場は、近くの中学、高校の陸上部の練習や様々なスポーツイベント、市民の憩いの場として使われている。
この記事の画像(17枚)その松山陸上競技場で撮影されたKTNに残る最も古い映像は、52年前の1971年に撮影された、当時、海上自衛隊のヘリが救急患者を輸送する様子。
松山陸上競技場は現在も、ドクターヘリの発着地として利用されている。
1981年、雪化粧をした松山陸上競技場にはカトリック信者など約4万7,000人が集まる中、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の歓迎集会が開かれた。
ローマ教皇は「私は巡礼者として長崎に来ました。長崎の輝かしい殉教者を私たちは心をこめてほめたたえたい」と説教した。
1981年8月、KTN主催の夏祭りイベント「ながさき夏祭り」では、総勢3,000人による盆踊りやレーザービームショーのほか、夜空に浮かぶ大輪の花火がクライマックスを飾った。
この場所で多くの人が汗水を流した
松山陸上競技場はスポーツイベントで、子どもから高齢者まで汗を流した場所でもある。
1986年5月に行われた「老人クラブ連合スポーツ大会」はお年寄りたちの親睦と健康増進を図ろうと、長崎市内28の地区から約3,700人が参加した。
70歳以上による50メートル走に始まり、男女がカードを合わせて走る「ロマンス旅行」やゲートボール競争など趣向を凝らした競技も行われ、おじいちゃんおばあちゃんがハツラツとした姿を見せていた。
1994年10月、秋の青空のもと、長崎市内の小学6年生全員が参加する「長崎市小学校体育大会」が開かれた。
陸上やバスケット、サッカーなどの種目で、それぞれの小学校の威信をかけて子どもたちはさわやかな汗を流した。
長崎に原爆が投下されて50年の1995年。スポーツを通じて平和の尊さを訴えようと「ながさき平和マラソン」が行われた。
全国から集まった約4,000人のランナーは、ゼッケンに平和のメッセージをつけて松山陸上競技場をスタートし、長崎市内を走り抜けた。
2022年8月9日、原爆犠牲者を悼む万灯の明かりが夜を照らす「万灯流し」。
原爆投下により、多くの人が水を求めながら亡くなったことから、爆心地からほど近い競技場横を流れる浦上川では、地元の自治会や労働団体などが協力して長崎原爆の8月9日夜に毎年実施していたが、2023年は台風で実施ができず、11月中旬に行う計画が進んでいる。
原爆当時この町で暮らしていた男性
松山陸上競技場に特別な思いを持つ被爆者がいる。本田魂さん(79)だ。
本田魂さん:
原爆に関しての“聖地”。ここにいた人は1人も助かっていない
この一帯はかつて「駒場町」と呼ばれていて、本田さんはこの町で祖父母や母と一緒に暮らしていた。
長崎に原爆が投下された1945年8月9日。当時1歳だった本田さんは、隣町の防空壕に避難していて命は助かった。しかし、自宅に戻っていた母と祖母は亡くなった。
本田魂さん:
母と祖母は空襲警報が解除になり「昼食を作りに行く」と家に戻っていた
爆心地から500メートル圏内にあった駒場町では約230世帯が暮らしていたが、原爆投下時に町内にいた人で生き残った人はおらず、多くが一家全滅だった。「無縁仏…引き取り人がいない遺骨がほとんどだった」という。
「平和の聖地」として残してほしい
終戦の2カ月後、犠牲者の遺骨の収集もままならない中、アメリカ軍は現在の陸上競技場付近の焼け跡に、簡易の飛行場「アトミック・フィールド」を建設した。
本田さんは「駒場町で生まれ20年ほど住んでいたが、何年たっても畑からは遺骨が出てきた」と話す。子どもの頃、拾った骨を洗い、祖父が作った納骨堂に納めていたことを今でも鮮明に覚えている。今も、骨が埋まっているかもしれないー
松山陸上競技場は道路整備による存続問題で揺れているが、本田さんは「平和の聖地」としてこのまま残してほしいと考えている。
本田魂さん:
長崎に原爆が落ちてこんな場所だったというのは、現実に残しておいて伝えていかないと分からない。長崎を最後の被爆地にということを知るためにも、ここを残したほうがいいと思う
松山陸上競技場を存続させるか否かを含め、平和公園周辺のスポーツ施設の移転をめぐる議論は現在も続いている(2023年11月現在)。
長崎市が設置した再検討部会は、2023年度中に意見を取りまとめたいとしていて、議論の行方が注目される。
(テレビ長崎)