73回目の長崎「原爆の日」
安倍首相は8月9日、長崎で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列しました。
炎天下で行われた式典で安倍首相は「核兵器のない世界の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくこと。それは我が国の使命です」と述べ、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める考えを示しました。
しかし、被爆者団体からも要望があった核兵器禁止条約への署名に関しては、「核兵器国は一か国も参加していない」「現実的アプローチをとっていくことが必要」などとして、否定的な考えを示しました。被爆者や被爆地に寄り添っていく姿勢を見せた一方で、北朝鮮などの現実的な脅威を踏まえ核の抑止力は必要という、政府の立場に沿った対応となりました。
こうした中、安倍首相の元には、関わりの深い、2人の訃報がもたらされていました。
応じる?応じない?ぶら下がり取材の対応に差
俳優の津川雅彦さん死去の報せが入ったのは、安倍首相が長崎に出発する直前の8日、朝のことでした。


生前、津川さんは俳優業の傍ら、拉致問題の解決にも熱心でした。その縁で、安倍首相とも交流が深く、会食することも少なくありませんでした。さらに政府の有識者会議のメンバーとして、今年に入ってからは鼻に酸素チューブをつけて出席するなど、いわば、安倍首相の応援団の1人でした。

訃報を受けて記者団が、安倍首相側に、追悼コメントとしてのぶら下がり取材に応じるよう要請すると、首相はすぐさま、長崎に出発する前に取材に応じました。その様子が、この記事冒頭の安倍首相の写真です。首相は「総理を辞職した後、本当に津川さんには温かく励ましていただき、背中を押し続けていただきました。本当に改めて感謝申し上げたいと思っています」と、その死を悼みました。さらに、自身のインスタグラムやツイッターにも追悼コメントを投稿しました。
一方、この日もう一人、安倍首相と「関わりの深い人物」が亡くなりました。

膵臓がんで闘病中だった沖縄県の翁長知事です。翁長知事は米軍普天間基地の辺野古への移設に反対する言わば”抵抗勢力”でした。
長崎に同行していた私たち総理番の記者は、すぐさま安倍首相の泊まるホテルに集結し、翁長知事死去を受けてのぶら下がり取材に応じるよう要請しました。しかし、その日のうちに安倍首相が応じることはなく、記者団は翌9日の記者会見の質問内容を急きょ変更して翁長知事の死去に関し質問。ここで首相は「謹んで哀悼の誠を捧げます」「翁長知事のこれまでの沖縄の発展のために尽くされたご貢献に対して敬意を表したいと思います」などとコメントしました。
一部に批判も…「情」を重視する安倍首相
すぐさま取材に応じ、追悼コメントを発した津川さんのケースと、翌日まで取材に応じなかった翁長知事のケース。この違いに一部から、津川さんが拉致問題も含め安倍首相と考えが近く”お友達”でもあるのに対し、翁長知事は”抵抗勢力”だったため、友人と敵として対応に差をつけたのではないかと批判する声が出ました。
ただ、翁長知事の場合は夜に入っての訃報で、首相はすでにホテルに入っていたこと、翌日に記者会見の予定があったことなど状況の違いがあり、翁長知事に冷たかったというのはややうがった批判と言えるかもしれません。
それでも安倍首相が、津川さんのケースに見られるように「仲間」「恩義」「友情」といった「情」の部分を重視しているということは確かと言えるでしょう。
「夜日程」を再開・・・総裁三選に向け準備加速
安倍首相は、7月の西日本豪雨をめぐり、自らを含む自民党議員が議員宿舎で開いた会合「赤坂自民亭」が批判を浴びて以来、政治家や経済界の人との夜の会食、通称「夜会合」を自粛していました。総裁選をにらみ地方県議らと会うのは、もっぱら昼間のみにし、夜は公務が終わると、そのまま私邸に帰る日々が続いていました。
しかしここに来て、8月7日夜には佐賀県議らと都内のホテルで懇談し、長崎から戻った9日にも自身の出身派閥である細田派の議員らと都内のホテルで会食しました。この会合には、森喜朗元首相も出席しており、総裁選の話も出たと見られます。

翌10日には、総裁選で一騎打ちとなる見込みの石破元幹事長がついに出馬を表明する中、安倍首相の三選への事前運動と、正式出馬表明に向けた動きは続きそうです。
(政治部 総理番記者 梅田雄一郎)