8月15日は終戦の日。日本にウエディングドレスを普及させたブライダルファッションデザイナー・桂由美さんは、中学生の時、東京大空襲を体験した。中学生までは「軍国少女だった」と話し、女性ながら特攻隊に志願する手紙を書いた過去がある。戦争を生き抜いた桂さんが平和の大切さを訴える。

自らの血で書いた「血書」を海軍省に

福井・若狭町にある美方高校で生徒に空襲の体験を語るのは、ブライダルファッションデザイナーの桂由美さんだ。若狭町には桂さんが手掛けるドレスの生産拠点とミュージアムがあり、これが縁で7月に桂さんが自らの生涯を語る特別授業を行った。

桂由美さん:
アメリカの飛行機からどんどん爆弾が落とされて、ものすごい火が上がって

美方高校で特別授業を行う桂さん
美方高校で特別授業を行う桂さん
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平成生まれの高校生たちに語り掛けたのは、友人5人を亡くした戦争体験だった。

桂由美さん:
今でいう中学2年生の時に、下町大空襲で大勢の人が死んだわけですよね。今の人に言っても分からないと思うけど、学徒動員といって15歳以上は働かなければならなかった

東京・下町の江戸川区生まれの桂さんは、盧溝橋事件、真珠湾攻撃など、日本が戦争へと突き進む激動の時代に幼少期を過ごした。

桂由美さん:
シンデレラとか人魚姫とか、おとぎ話の中に生きているような少女だった。日本もそういう国でありたいという気持ちはあった。日本は絶対的に正しくて、他の国は悪いと思ってましたよね

中学校入学時には、すでにアメリカとの戦争は始まっていた。愛国教育を受け、海軍に強い憧れを抱く“軍国少女”になっていたという。中学生の桂さんは「お国のために…」と、海軍省に一通の手紙を送った。それは自らの血で書いた「血書」だった。

桂由美さん:
愛国心が強かった。海軍省に手を切って血を出して血書を書いた。「なぜ女を特攻機に乗せないんだ」「私も特攻機に乗りたい」と。日本を勝たせるために、何か役に立たなければならないという思いだった

転がっていたのは本物の人間だった

国内に伝えられる華々しい戦果とは裏腹に、日本軍は「転進」という名の撤退、「玉砕」という名の全滅を重ねる。1944年からは本土爆撃が本格化した。1945年3月10日には、桂さんが住む東京・下町にもアメリカの爆撃機B-29が現れた。その数は300機余りだという。

桂由美さん:
家は大丈夫だったけど、一晩中空襲の様子を見ていた。「あの辺だったらあの友達がいたのに」と思って

東京大空襲では、一晩で約10万人の市民が犠牲になった。友達の安否確認のため、学徒動員で働いていた工場に向かったが、その道中で見た光景は78年たった今も脳裏に焼き付いている。

桂由美さん:
実家が洋裁学校を経営していて、マネキン人形をよく見ていた。町中にマネキンがゴロゴロ転がっていて、大きなマネキン屋さんが戦災に遭ったんだなと思って。通り過ぎて左を見たら、真っ二つに切られた馬の下半身だけがあって…。あっとして「さっきのマネキン人形は本物の人間だったんだ…」と思って、そこに座り込んでしまった。水路があって熱いから飛び込む。水の上まで死体の山ができて、泣いて見ている人たちがいた

平和の中でファッションは成長できる

千葉に疎開していた桂さんは、空襲から約5カ月後の8月15日にラジオ放送で日本の敗戦を知る。

桂由美さん:
最後は日本が勝つと思ってましたよね。だから8月15日の天皇陛下のお言葉は非常にショックだった。8月15日に陸軍大臣が皇居の前で切腹した。「私も一緒に死にたかったな…」って思って。絶望という感じ。今まで張り切ってやってきたのに全部無になると

記念写真を撮る美方高校の生徒と桂さん
記念写真を撮る美方高校の生徒と桂さん

先の大戦から78年。その後、日本は一度も戦争に陥っていない。一方、世界ではロシアによるウクライナへの軍事侵攻など、平和を維持できない地域がある。ブライダルファッションデザイナーの桂さんは、平和の中でしかファッションは成長できないと強調する。

桂由美さん:
日本もそうだったが、戦争になるとファッションどころではない。ウクライナのファッションが今も伸びているかと言ったら、あの状況では伸びない。今の状況のありがたさを日本は自覚して、そこを伸ばしていく必要がある

(福井テレビ)

福井テレビ
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