6月29日夕刻、練習拠点の母校・東京学芸大学の柔道場。突然スマホのバイブが振動した。着信は全日本女子の増地克之監督から。神妙な面持ちで話し終えると、静かに両手で大きなマルを描く。固唾を飲んでいた仲間たちから歓声が弾ける。

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「おめでとう!」

祝福の声を受けたのは、日本柔道史上最速となる「オリンピックまで1年3カ月を残しての代表内定」を掴んだ、女子48㎏級・角田夏実。

この8月6日で31歳を迎える大ベテランだ。

5月の世界選手権で3連覇を達成。2021~23年と3度にわたる世界選手権を全試合一本勝ちで圧勝し、世界中から恐れられる“最強女王”。その武器は、自身でも「それしかない」と苦笑いするほどの決定率を誇る「巴投」と「関節技」だ。

日本柔道+他競技から得た 寝技テクニック

女子最軽量級では目立つ161cmの高身長。リーチの優位性を軸に、全身のパワーと理論立った技術で決める巴投。寝技主体の柔術やグラップリングなど、他の格闘技から習得した関節技は、従来の柔道寝技では防御しきれない奥深さがある。

正統派日本柔道に独特の色味をつけた「尖った柔道」で、現時点で既に「パリ五輪金メダル最有力候補」の呼び声が高い。

来年、31歳でのオリンピックデビューを無事果たせば、柔道日本女子では歴代最年長記録に。遅咲きの夢舞台にたどり着くまでの彼女の歩みは「波乱万丈が好きなんでしょう」と自身で揶揄するほどに数奇で、運命的なものだった。

小学生の頃は「泣き虫なっちゃん」

7月中旬、角田の姿は故郷の千葉県・八千代市にあった。

五輪内定後初の里帰り。母校の八千代高校は千葉県下に多くある体育科のある公立高校の一つで、女子柔道部はいわゆる「名門」。コロナ禍で稽古がままならない時期には、練習相手を求めて幾度となく訪問していた出稽古先の一つでもある。

いつものように道場の扉を開けると、後輩部員たちによるクラッカーでの祝砲が待っていた。受け取った花束は大好きなイエロー系の配色。はにかみながら応える祝福の輪には、高校時代の恩師やご両親の姿もあった。

「ここまでやるとは思っていなかったけど頑張りました」と笑顔で語る父・佳之(よしゆき)さんは角田夏実の柔道の出発点となった人物。父の肩にいつも乗っかっていたおてんば娘を「とにかく泣き虫だったから」と柔道へ誘う。小学2年生で始めたが、次第に他の女の子と同様、壁に当たる。

当時の様子を母・五都子(いつこ)さんは。

「小学生は試合でも男女一緒で、5~6年生になると、男の子にどうしても力負けしてしまうし、試合も稽古も本当にいつも泣いてばかり。試合開始前にもう泣いている!それが普通で、仲間のお母さんたちから『なっちゃんは泣いてからが強い』と笑われていました」

「現実は甘くない」挫折の末、まさかの進路希望…

「泣き虫なっちゃん」は親御さんたちの共通認識、そしてそれは負けん気の強さの証明でもあった。強くなりたい一心で名門・八千代高校柔道部へ。目標は日本一。「人生で一番頑張っていた時期かも」と振り返るほどに柔道に明け暮れた高校3年間だったが、2年生でのインターハイ3位が最高成績。3年生の時には全国5位と夢破れてしまう。

角田はこう振り返る。

「2年生の時全国大会で負けた相手が3年生で、じゃあ来年はもう優勝か2位しかないよねと言われていたけれど、結局負けてしまった。現実は甘くないな…と。もう頑張れないくらい頑張った。“もう柔道はいいかな”って思ってしまいました」

高校卒業時の進路相談。全国大会3位の角田が持ち出したまさかの選択は、「ケーキ屋さんになりたい」。父と一緒に趣味で楽しんでいたお菓子作りを次なる道に選ぼうとしていた。製菓専門学校への進路希望。

当然周囲は驚いた。

思わず声を荒げたのは、当時柔道部の監督を務めていた石渡正明(いしわたまさあき)さん。
「ばかやろう!インターハイ3位になってケーキ屋さん目指す奴がいるか!って(笑) 。大学や実業団からスカウトがたくさん来ていたので、ぜひ続けてほしいと思っていたんですけどね」

母・五都子さんも「両親としてはやはりどこか大学には…という思いはありました。でも否定はしなかったですね。最終的には本人が決めることですから」。

柔道では無名の国立大学へ 先輩が教えてくれた未知の技

そんな折、偶然スカウトの声がかかったのが、ちょうどこの年から柔道部の強化に着手することになった東京学芸大学。強豪大学のような過酷な稽古環境とは一線を画した「未開の地」。角田いわく「柔道を楽しみながら続けられそうだし、国立大学だから親も安心だし。運がよかったんですよね」。

周囲のアドバイスにも導かれ、東京学芸大学で現役を続行することに。稽古は1日1回を週数回。練習量は圧倒的に少なくマイペースに柔道を楽しむことが許された。ただ、増えた自由時間に反比例し自身の衰退も明確に感じていた。「このままじゃ、やばいかも…」次第に自由時間は“柔道の稽古以外での研鑽”へとシフトしていく。

運命は、この時期に訪れる。「柔術」「グラップリング」との出会いだ。

「柔術」「グラップリング」とは寝技、とくに関節技や締め技を主体とした柔道とは別の格闘技。柔道の寝技にも応用の利く未知の技術が多く、角田はこれに没頭していく。暇を見ては道場でコロコロ寝転がる毎日。必殺の関節技の礎はこの時に磨かれ、その進化は自ずと成績にまで波及していく。

大学3年になると、全日本学生体重別選手権で自身初の全国優勝を達成し、実業団チームのスカウトを呼び込む。柔道人生はまたしても未来へ導かれていった。

社会人になっても終わらない…波乱の人生

角田夏実の波乱万丈はまだまだ続く。大学卒業直前のケガで社会人2年目まではろくに試合ができない状況に。

職業としての柔道家、試合に出られない選手をまかない続けるチームは少ない。成績が出なければクビ、という背水の陣で挑んだ2016年全日本実業個人選手権52㎏級で2位入賞。シニア日本一を決める講道館杯の出場権を得ると、同大会でも自身驚きの大会初制覇。初の国際大会、グランドスラム東京への推薦をも獲得する快進撃を見せる。

そのグランドスラム東京でも決勝まで進むと、当時シニアデビュー直後、後の東京五輪女王・阿部詩を腕挫十字固で破り国際大会初制覇。翌2017年にはその阿部詩を押しのける形でついに世界選手権日本代表へ。決勝で同時派遣の日本代表・志々目愛に敗れたものの、世界銀メダルを獲得。シンデレラストーリーを地で行く活躍で、一気に世界のトップ選手の仲間入りを果たした。

「やっぱり成績が出てくると欲が出ますよね。オリンピックが現実のものとして頭によぎるようになったのもこのあたりから。出られるなら出たい」

58kg→48kg階級変更も東京五輪届かず

しかしやはり波乱が続く。52㎏級での東京五輪争いは阿部詩、志々目愛、角田夏実の3つ巴となったものの、またもやケガなど不運もあり他の2人に後れを取る形に。実質可能性ゼロとなった段階で、角田が選んだ道は「48㎏級への階級変更」だった。

「もともと52㎏級ではあまり減量もなく、48㎏級も視野にあった。52㎏級で結果を待つより48㎏級にいったほうがまた可能性あるし、面白いんじゃないかなと。やるだけやってみようと思いました」

期間ギリギリの階級変更は無謀な挑戦でもあった。戦い方の変化、減量との戦い、難しいコンディショニング。奮闘はしたものの、結果、東京五輪代表は落選。補欠へ回ることに。この時すでに28歳。現役引退もよぎる中、東京オリンピック直前、コロナ禍で開催された2021年世界選手権で初の世界女王の座を射止めたことで、パリ五輪への意識が生まれたという。

「まだ体は動くし、柔道も好き。世界女王になれたし、ここで辞めたらもったいないかなって。オリンピックは出られるなら出たい。その意識は変わらなかったです。やりきりたい」

「泣き虫なっちゃん」パリ五輪へ 金メダルへの思い

パリ五輪ロードは、成績だけ見れば順調そのもの。今年は世界選手権3連覇を全試合一本勝ちで達成。国内ライバルたちにも一切の隙を見せずに最短距離を走り切ったが、自身はひたすら「不安との戦い」に身を置いていた。

「負けたら引退、と毎試合思っていましたし、今でもそれはよぎってきます。ここぞの大一番に勝てないから東京五輪は届かなかったので常に『負けたらどうしよう』ばかり考えて、試合の合間でも涙がポロポロ…。年のせいかまた涙もろくなって…(笑)。だからパリ五輪の内定は出ましたけど、1年後蓋を開けてみたら別の選手が出ていた、なんてネガティブなことばかり考えています。とにかく来年パリの舞台に無事立つまで、安心できません(笑)」

肝心な所で勝負を逃す、それを克服すべく挑んだ世界選手権で3連覇を見事達成し、パリ五輪への切符を掴んだ。あと1年まだまだ安心はできないが、目標だけは明確だ。

「やっぱり目標は金メダルを目指して。自分の思いより、支えてくれた皆に、という思いのほうが大きいです。皆がいたからここまで来れたって最近はすごく思います。喜んでくれる人たちに『無事金メダルとれたよ』って報告するまでが自分の中での1セットだと思っています」

角田自身も忘れていた、幼き日の思いがある。

小学校の卒業文集に書いていた願いは

「長く柔道を続けたい」

その願いは30代に突入した今、数奇な運命と周囲の支えに導かれ、現在進行形で叶っている。

来年の夏、パリ五輪の畳に31歳で上がる角田。まずはちゃんと出場できるように。

ネガティブシンキングと戦う日々に再び、世界女王は踏み出している。

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