経験からの過信・実際とは違った津波予測…避難する側・呼びかける側ともにあった過小評価が、巨大津波からの逃げ遅れにつながったと当事者は語る。東日本大震災から12年、反省と課題から導き出した教訓を取材した。

過信していた…想像を上回る津波

2011年3月11日、太平洋の沿岸部を襲った巨大な津波。東日本大震災による、福島県内の死者は4166人に上る。

2011年3月11日 太平洋の沿岸部を襲った巨大津波
2011年3月11日 太平洋の沿岸部を襲った巨大津波
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津波で町全体の5分の1が浸水し、110人が犠牲になった福島県新地町。
消防団に所属する岡崎仁一さん。自宅は海岸から150メートル・海抜は14メートルあり“津波は絶対に大丈夫”と考えていた。

福島県新地町 津波で町全体の5分の1が浸水 110人が犠牲に
福島県新地町 津波で町全体の5分の1が浸水 110人が犠牲に

壁のように盛り上がり、白波を立ててきたと表現する人もいた津波。当時、心配だったのは自宅に一人でいた85歳の父・仁平さんのことだった。

自宅は海岸から150メートル “津波は絶対に大丈夫”と思っていた
自宅は海岸から150メートル “津波は絶対に大丈夫”と思っていた

父・仁平さんは、近隣住民と高台へ避難。それでも押し寄せた津波に流されないよう、生えていた笹につかまっていたという。仁平さんは、水を被りながら津波から逃れ一命をとりとめたが…自宅周辺の地区では4人が犠牲になった。

父は水を被りながらも一命をとりとめたが…地区では4人が犠牲に
父は水を被りながらも一命をとりとめたが…地区では4人が犠牲に

「津波は絶対に大丈夫」 震災前、自分と同じように地区の多くの人も津波を“過小評価”していたと岡崎さんは感じている。

「津波は大丈夫」 自分と同じように地区の多くの人も津波を“過小評価”
「津波は大丈夫」 自分と同じように地区の多くの人も津波を“過小評価”

「昔はチリ地震とか宮城県沖の地震とかあって、その時は大きな津波はこなかった。だから“大丈夫だろう”という過信があった。教訓は、即逃げる。あと絶対大丈夫と過信はしない。それが大切」と岡崎さんは話す。

岡崎仁一さん「教訓は、即逃げる。絶対大丈夫と過信はしない」
岡崎仁一さん「教訓は、即逃げる。絶対大丈夫と過信はしない」

全体像が分からない中での警報発令

津波の過小評価。それは避難を呼びかける側にもあった。
気象庁の地震津波防災推進室・海老田綾貴室長は「東北地方太平洋沖地震では、地震そのものが終わるまで約3分ずっと揺れていた。巨大なものだったので、地震発生から約3分で発表する津波警報の第1報の段階で、正確なマグニチュードを求めるということが困難だった。その全体像が分からない中で、津波警報を出さなければならなかったので、過小評価になってしまった」と話す。

地震津波防災推進室・海老田室長「全体像が分からない中で津波警報を発令 過小評価に」
地震津波防災推進室・海老田室長「全体像が分からない中で津波警報を発令 過小評価に」

気象庁は地震発生の3分後に大津波警報、その1分後には予想される津波の高さを3メートルと発表した。
しかし、その後正確な地震の規模が分かり始めたことから、24分後には6メートル、さらに17分後には10メートル以上に引き上げた。
実際、福島県沿岸部には10メートルを超える津波が押し寄せ、多くの人が命を落とした。

初報は3メートル 実際、福島県沿岸部には10メートル超の津波
初報は3メートル 実際、福島県沿岸部には10メートル超の津波

古い情報を信じ逃げ遅れ

気象庁や内閣府などがまとめた調査結果では、更新された津波の情報を「見聞きしていない」人は福島県で57%と6割近くを占めた。避難で余裕がなかったり、防災行政無線から更新の情報がなかったりしたことなどが理由だった。

更新された津波の情報を「見聞きしていない」人は福島県で57%
更新された津波の情報を「見聞きしていない」人は福島県で57%

多くの人が「津波は3メートル」と思い込んでしまい、避難の遅れにつながった。

その教訓から、気象庁が津波警報を見直したのは東日本大震災の2年後。巨大な地震が起き津波を予想される場合には、高さを具体的な数値で示すのではなく「巨大」「高い」という言葉で発表。
その後、地震の規模を正確に確認できた段階で数値を伝える方法に改善した。

地震の規模を正確に確認できた段階で数値を伝える方法に改善
地震の規模を正確に確認できた段階で数値を伝える方法に改善

気象庁地震津波防災推進室の海老田綾貴室長は「マグニチュード8を超えるような巨大地震については、地震発生後約3分程度、地震の規模を精度よく推定することは、残念ながら当時も今もできない。津波の高さを”巨大”と予想する大津波警報が発表された場合は、東日本大震災のような巨大な津波が襲うおそれがある。直ちにできる限りの避難をしてほしい」と話した。

巨大と予想する大津波警報が発表された場合は、直ちにできる限りの避難を
巨大と予想する大津波警報が発表された場合は、直ちにできる限りの避難を

逃げ遅れゼロを目指して

福島県相馬市で生まれ育った草野富二雄さんは、気象庁の元職員。東日本大震災当時、務めていたのは大阪管区気象台。東京の本庁と、月ごとに交代で津波警報などの発表を行うことになっていて、震災が起きた3月は“大阪”が担当だった。

震災当時、津波警報発表を行う担当だった大阪管区気象台に
震災当時、津波警報発表を行う担当だった大阪管区気象台に

草野さんは「担当の専門官が、例えば福島県に大津波警報を判断した時に、私は了承する立場にあった。想定外の津波が発生していると見ていた。私も大阪管区気象台で、どうなるか見極めるため帰らずに3~4泊していた」と当時を振り返る。

故郷で想定外の津波が発生している
故郷で想定外の津波が発生している

課題が残った当時の津波警報。“当事者”の1人だった草野さんは「発表した津波の高さが、実際に観測された津波よりも低いものを発表した。それが避難の遅れにつながった可能性がある。これは我々としても反省・課題として受け止めないといけない。なかなか正しく表現するのが難しいところがある」と今も複雑な思いを抱えていた。

今も抱える複雑な思い 避難の遅れにつながった可能性
今も抱える複雑な思い 避難の遅れにつながった可能性

津波で逃げ遅れる人をゼロに近付けるため、草野さんは定年後NPO法人に所属し毎週「地震ニュース」を発行するなどして、いまも教訓を伝える活動を続けている。
草野さんは「人はどうしても嫌なことを忘れてしまうし、忘れようとするけれど、やっぱり忘れてはいけない出来事がある。忘れてはいけないし、後世にも正しく伝えないといけないと思いますね」と語った。

退職後も教訓を伝え続ける「忘れてはいけないし、後世にも正しく伝えないといけない」
退職後も教訓を伝え続ける「忘れてはいけないし、後世にも正しく伝えないといけない」

避難を呼びかけた側、そして避難した側にとっても、忘れられない・忘れてはいけない”あの日”から12年が経った。

(福島テレビ)