8月24日、京都市内の自宅で老衰のため亡くなった京セラの創業者、稲盛和夫さん(享年90)。27歳という若さで起業し、京セラを一代で売上高1兆円を超す世界的な大企業へと育て上げました。

その類いまれなる経営手腕から、“ベンチャーの神様”とも呼ばれた稲盛氏。晩年には、若手経営者らの育成にも尽力し、国内だけでなく海外の経営者にも影響を与え続けてきました。

そんな稲盛氏の経営を支えていたのが、「利他の心」という経営哲学です。頂点に上り詰めながらも、自ら新たな困難に挑み続けた人生を振り返ります。

若くして起業、世界も注目する経営手法

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1932年、鹿児島県で7人兄弟の次男として生を受けた稲盛氏。医学部を目指し受験していたものの、不合格になり鹿児島大学の工学部に入学。そして27歳の若さで、当時の京都セラミック(現・京セラ)を創業しました。

稲盛氏は人材育成に力を入れており、1983年に経営塾「盛和塾」を発足。国内外の経営者をのべ2万6000人育て上げたともいわれています。日本を超えて中国でも絶大な支持を受けており、著書『生き方』は、534万部のベストセラーになりました。

世界からも注目されていたのが、稲盛氏が生み出した経営手法「アメーバ経営」。会社の組織を独立採算運営の小集団に区分けし、各グループのリーダーを中心に共同経営のような形で運営するというものです。この手法により、経営陣だけではなく全社員が収支を意識できるというものでした。

大切にし続けた「利他の心」

稲盛氏が経営の上で絶対に欠かせなかったもの、それは「利他の心」でした。これは「自分を犠牲にしても他人を助ける」という精神です。

この言葉が生まれたのは創業間もない頃でした。当時の社員が給料体系の改善などを相談してきた際、3日間かけて説得し、最後には「もし私が私利私欲のために働くようなことがあったら刺し殺してもいい」と熱弁したそうです。

この経験から、稲盛氏は「社員の幸福を考えること」が経営の基本だと痛感。さらに、社員だけではなく人々の幸せも考えることこそが最終的に会社に利益をもたらすのだ、という考え方を確立していったといいます。

稲盛氏を直接取材した事もある作家の北康利氏はこう話します。

作家・北康利氏:
社員全員で心をひとつにする。刺し殺してでも自分の気持ちを分かってくれ、と。そもそも稲盛氏は創業した際に血判状を作ったくらいの方ですので、社員で思いがひとつにならなかったら会社を経営している意味がない、というくらい考えていらっしゃった。

数々の“無謀な挑戦”

独自の経営方法を武器に京セラを世界的な大企業へと導いた稲盛氏ですが、成功の裏ではまさに綱渡りともいえる、数々の“無謀な挑戦”を繰り返していました。

最初の挑戦は、通信事業への参入です。

1984年、第二電電(現・KDDI)を創業。このときの通信事業は、NTTが独占状態でした。当時の京セラとNTTの売り上げ規模の差は約20倍。当然、京セラの役員はこの事業参入に全員が反対しました。しかし、稲盛氏は役員らを説得。さらに、京セラの内部留保(当時)1500億円のうち、1000億を投入したのです。

その目的は「価格競争による通信料の引き下げ」。市場の独占を是正して、国民のため価格競争による通信料の引き下げを促進するという「利他の心」に従った行動でした。

稲盛氏はこの決断を半年間悩んだといいます。自身の著書でこう綴っています。

「会社や自分の利益を図ろうとする私心がそこに混じっていないか。あるいは、世間からよく見られたいというスタンドプレーではないか。その動機は一点の曇りもない純粋なものか……」(『生き方』稲盛和夫著・サンマーク出版)

しかし、この無謀に思えた挑戦によって通信事業の自由化が加速。本来の目的を見事達成し、会社自体も大手携帯会社の一角を担う企業に成長するなど大成功を収めました。

稲盛氏はさらに無謀とも思える挑戦を続けます。記憶にも新しい、JAL(日本航空)の経営再建です。

負債総額2兆3000億円を抱えて経営破綻したJAL(日本航空)。当時の政権が経営の立て直しを要請したのは、その時すでに一線を退いていた稲盛氏でした。

稲盛氏は、二つ返事で要請を了承。要請を受けた理由は、ANA(全日空)による市場独占の影響を考慮し、日本経済のためだったといいます。稲盛氏は就任発表後の会見で「日本の景気が悪い中で、なんとしても阻止をしなければならない、一生懸命努力して協力していきたい」とした上で、「給料をいただく気はありません、無休で働かせてもらいます」と宣言し、話題になりました。

「自身の利益」ではなく、「日本経済」のために立ち上がった稲盛氏。作家の北康利氏は、稲盛氏の人柄について次のように話しました。

作家・北康利氏:
大好きだったのは牛丼ですからね。牛丼ですとか、餃子屋さんで稲盛さんと一緒にお酒を飲みましたという方はいっぱいいますから。高級クラブですとか、割烹料亭は大嫌いでしたから。

どれだけ経営者として成功し、会社を大きくしても、変わらないままでいた稲盛氏。「利他の心」の原点はそこにあったのかもしれません。

私財200億円を投じて「京都賞」創設 

飽くなき挑戦により日本経済に影響を与え続けてきた稲盛氏。その挑戦は、経営以外の場所でも行われてきました。

1985年、私財200億円を投じて“日本版ノーベル賞”ともいわれる「京都賞」を創設。

これまでの受賞者には、京都大学の山中伸弥教授や、同じく京都大学の本庶佑特別教授などが名を連ねています。京都賞を受賞した後にノーベル賞を受賞した受賞者がいることから、“ノーベル賞の登竜門”ともいわれています。

日本経済への思い

様々な挑戦を乗り越えてきた稲盛氏は、今の日本経済に対してどのような思いを抱いていたのでしょうか。

作家・北康利氏:
一番心配してらっしゃったのは、国民の“熱量”が下がってきてしまっていることですね。
稲盛さんの言葉を借りますと、「ど真剣に生きろ」と。燃える闘魂を持つんだということをしつこく言ってらっしゃったんですけど、なんとなくみんな冷めているということに、ものすごく心配をしていらっしゃいました。
「利他の心」というお話があるんですけども、やはりもうけを考えないビジネスマンなんていないんです。京セラというのは、創業時からずっと黒字を続けていて、「赤字であるのは悪だ」とはっきり言っていらっしゃいます。ただその中で、独占状態で自分だけが儲かっているような会社ですとか、そういうものを嫌っていました。

(めざまし8「分かるまで解説」 9月1日放送)