1959年の6月30日、沖縄・うるま市石川にある宮森小学校にアメリカ軍のジェット機が墜落し、児童や住民が犠牲になった事故から63年。
事故を風化させまいと活動する石川・宮森630会は、2年前から取り組んできたアメリカ軍の医療記録の翻訳を終えた。そこに記録された、頭部に大けがをして生死の狭間をさまよった当時の幼稚園児が、2022年6月30日の慰霊祭を前に沖縄テレビの取材に応じた

「知るのが怖い」悲しみ伴う翻訳作業

翻訳された報告書は、宮森小学校ジェット機墜落事故で重傷を負った32人の治療の記録だ。全身の約半分に及ぶ火傷や骨折した頭蓋骨、火傷の治療のための皮膚の移植手術の詳細が記されている。
この翻訳に関わった、事故当時に宮森幼稚園の園児だった清水洋一さんはケガはなく、事故の記憶もほとんどなかったが、翻訳の作業には悲しみが伴った。

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翻訳に参加した清水洋一さん:
本当は知らないといけないんだけど、知るのが怖いというのもあったり。だけど、無傷でこうやってここまで、同級生の痛みも想像すらしないで今まで来たことに、申し訳ないという気持ちもあって

ジェット機が墜落した直後の清水さんの記憶…

翻訳に参加した清水洋一さん:
この中で窓から子どもたちを投げて、僕も先生に投げられた。投げられたと、この記憶だけ一番残っている

事故遭遇した教師の証言に登場する一人の女の子

子どもたちを窓の外に投げて教室から逃げさせたのは、幼稚園4組の担任、玲子先生。事故の証言集には、玲子先生の言葉で当時のことが記録されている。

宮森幼稚園4組の担任 伊波玲子さん:(事故の証言集)
あの時、私は子どもたちを窓から外に投げました。

怜子先生の証言には、一人の女の子が登場する。新里節子ちゃん。この名前は、今回翻訳を終えた医療記録の中にもあった。複合頭蓋骨骨折の剥離と壊死した脳の除去。この患者は、重度の頭蓋骨損傷を受けた3人の患者のうちの1人だった。

【当時の医療記録】
【当時の医療記録】

63年前の宮森小学校ジェット機墜落事故では、宮森小の児童とその周辺住民合わせて18人が死亡した。さらに、骨折、頭部の損傷、火傷など200人あまりがケガを負った。

翻訳を担当した長嶺將春さん:
皮膚移植にも、分層植皮と全層植皮と、薄くとるか、厚くとるかという

翻訳の大部分を担当した長嶺將春さんは、久高会長と知り合うまで事故を知らなかったと話す。

翻訳を担当した長嶺將春さん:
この歴史的な事実を同時代的に体験してるんだけど、全然体感しているものがなくて、ショックだった。そういう中でやっていく中で、同年代の人が亡くなったということで、やはり何としても、この無念にこたえようという気持ちになりましたね

アメリカ軍が陸軍病院で行った治療について、事故の2年後までの3回の報告書には、壊死した脳の切除手術や、指を切断しなければならないほどの火傷を負った子どもの治療が記録されている。

記憶が戻らない中での生活…支えてくれた恩師と再会

事故のその時、宮森小学校にいた当時の子どもたちが集まった。
佐藤節子さん(旧姓新里)。怜子先生の証言と医療記録に残されていた、頭部に大きなケガを負った園児だ。長年暮らしていた東京から2021年、沖縄へ戻り、事故から63年を前に当時の記憶を語った。

当時宮森幼稚園園児 佐藤節子さん:
すこし、わかる。骨が無かったから、心電図を。頭に、みんな心電図をやった

節子さんは事故後、意識不明でアメリカ軍の陸軍病院に運ばれ、手術のあと数カ月、記憶がなかった。
記憶が戻らない中での入院生活、そして退院後も支えてくれた恩師。怜子先生と節子さんはこの日再会した。

宮森幼稚園4組の担任 伊波玲子さん:
せっちゃん、会いたかった

当時宮森幼稚園園児 佐藤節子さん:
ずっと先生が好きだった。ずっと会いたい、会いたいと思いました。それでやっと会えました

63年前のつらい記憶と、支えてくれた恩師への思い。再会した同窓生とともに、節子さんは2022年6月30日、宮森小学校で執り行われる慰霊祭に初めて参列した。

(沖縄テレビ)