取材班のもとに一件の調査依頼が舞い込んだ。
依頼文:
40年前、母と金沢市内の料亭「つば甚」に出かけました。その時、地下道を通って隣町の宴会場で食事をしたのですが、あの地下道は今も残っているのでしょうか?
「つば甚(じん)」といえば、藩政時代から続く県内でも有数の老舗料亭だ。その料亭に、隣町につながる地下道がある?
約40年ぶり…母との思い出の老舗料亭へ

依頼者の谷内幸代(やち・さちよ)さん(63)に、詳しく話を聞くことに。
谷内さん:
40年前に母と、呉服店の招待で「つば甚」で開かれた着物の展示会に行きました。大広間で着物を見立ててから、スタッフの方が地下道へと案内してくれたんです
秋末アナウンサー:
じゃあ、地下道で「つば甚」がある寺町から、隣町にワープしたんですね
谷内さん:
それが、すごく不思議で…。その地下道が今もあるのか知りたくて
「つば甚」は1752年創業、金沢でも指折りの老舗料亭だ。寺院が立ち並ぶ高台の町・金沢市寺町にある。

一方、谷内さんがつば甚から地下道を通って到着したという宴会場「センチュリープラザ」とは、1972年から1999年まで経営されていた総合宴会場だ。つば甚がある寺町の隣町、清川町の川沿いにあった。

夏には涼がとれると、ビアガーデンも開かれ人気があったという。しかし、隣町とはいえ、寺町と清川町は高低差もあり、車移動でも5分ほどはかかる。

その二つの場所をつなぐ「地下道」は本当にあるのか?存在したとしたら、何のために作られたのか…。謎を解くために、依頼人の谷内さんと共に「つば甚」を訪ねた。
いざ謎解き!思い出の広間は200畳…地下道はあるのか?
「つば甚」で出迎えてくれたのは若女将・鍔裕香里(つば・ゆかり)さんだ。

まず、依頼人の谷内さんにとって、母との思い出の場所・2階の大広間へ。大正時代にしつらえられたという大広間は、なんと200畳。谷内さんは当時、所狭しと着物が並んでいたことを思い出し、その広さに驚いた。

秋末アナウンサー:
わ~広い!
谷内さん:
確かにこの部屋でした。立派ですね。こんなに広かったんですね

40年前、娘のために着物を仕立ててくれた母を思い出す谷内さん。そこに、若女将から更なる提案が…

若女将:
実際に地下道をご覧になりますか?ご案内しますよ
秋末アナウンサー:
さらっと…。いいんですか?
若女将:
普段はお客様が全く入らない場所で、倉庫も通りますが、それでもよければ
すんなり判明した、地下道の存在。若女将の申し出を受け、大広間の2階から1階へ向かう。
若女将:
ここです
谷内さん:
これです!これです。ここで呉服店のご主人とご挨拶して、「じゃあ、さようなら」って感じで…。そして、スタッフに先導されて、下りました
若女将:
では、その秘密の階段を下りましょうか?お気を付けください。少し、暗いので…
いよいよ、隣町にワープする地下道へ…

秋末アナウンサー:
本当に地下ですね

谷内さん:
あ!センチュリープラザって書いてある
若女将:
こちらは名残です
現在は、倉庫としている使われている通路をどんどん奥へ進むと…。

若女将:
現在はここでストップです
行き止まりになっていたが、若女将がその先にある普段使っていない扉を開けてくれた。

秋末アナウンサー:
あ!もう、外なんですね!
若女将:
向こうに見えているのは、旧センチュリープラザだった建物です。元々、渡り廊下でつながっていたんですよ。
実は隣町とはいえ、位置関係はごく近く。センチュリープラザは、つば甚の裏手にあったのだ。

谷内さんが『地下道』だと思っていたのは、「つば甚」の地下と、その裏手にあるセンチュリープラザの3階を結んでいた通路のことだった。どちらも「つば甚」が運営していたため、人が往来できるように通路を設けていたのだという。
現在、センチュリープラザは専門学校に変わり、その改修の際に、二つの建物をつなぐ渡り廊下は撤去されたため、いまは行き来はできない。

谷内さん:
渡り廊下だったんですね。ひたすら地下を掘って、隣町につながる道を作ったんだと思っていました
若女将:
当時は繋がっていると思いますよね。謎は解けた感じでしょうか?
谷内さん:
はい、解けました!

地下道ではなかったが、今回の謎解きで、谷内さんにとって「つば甚」の通路は母と過ごした思い出をたどる道となった。
(石川テレビ)