戦後77年。長崎県内にも原爆を始め、戦争の爪痕が多く残っているが、その一つが水上特攻艇「震洋」の訓練所だ。
2022年5月、3年ぶりに遺族が出席しての慰霊祭が行われた。
ロシアのウクライナ侵攻など、21世紀になっても、いまだ世界各地で紛争が絶えない状況の中、改めて「震洋」を巡る関係者の思いを取材した。
特攻の訓練所…川棚町に今も残る戦争の爪痕
長崎・東彼杵郡川棚町。この日、慰霊祭の会場では読経が流れる中、高齢となった遺族が次々と献花を行った。
この記事の画像(17枚)「震洋」元隊員の妻・古澤榮子さん:
主人は戦死してないんですよ。もう一回出撃命令が出たら、今度突っ込むって、台湾で待機してて、それで終戦になった。
(Q.今日かぶっているのは?)
これは日々の訓練しとった頃の帽子。うちの祭壇にね、今もお供えして、朝晩お参りしてる。今は主人の代わりにね、慰霊の気持ちだけは
古澤さんの夫・操さんは、11年前に亡くなったという。
東彼杵郡川棚町。かつて旧日本海軍の軍事工場があり、魚雷などを作っていた。その跡は朽ちた姿で今も残っている。
川棚町には特攻の訓練所もあった。爆薬を積み、敵艦にぶつかる特攻の船「震洋」だ。
太平洋戦争の末期、全国から多くの若者が川棚へ集まり、2カ月間の訓練の後、戦地へと向かった。
生き残った者たちは、かつて訓練所があった川棚に石碑を建て戦友をしのんでいる。
石碑には3,500人を超える戦没者、一人一人の名前が刻まれている。
「これで死ぬのか…」多くの若者が水上特攻艇「震洋」の訓練に
特攻は太平洋戦争の最中、日本の戦況が徐々に悪化していく中で生まれた最後の奇襲作戦、体当たり攻撃だ。状況を打破すべく、「特殊奇襲兵器」の投入が打ち出された。
そのひとつが人間魚雷「回天」、そしてもう一つ、実戦に使われたのが水上特攻艇「震洋」だ。
ベニヤ板でできた小型ボートで、1人または2人が乗り込み、先端には250kgの爆薬を積んで、時速50kmほどのスピードで敵艦に突っ込んでいく船だ。
大村湾に面している川棚は波静かな内海のため、訓練にも最適で、極秘任務も遂行しやすい場所だった。横須賀にあった魚雷艇の訓練学校が川棚に移された。
横須賀から移転してきてすぐの頃は、魚雷艇だけの訓練をしていたが、やがて水上特攻艇「震洋」の訓練も行われるようになった。ここで約6,500人の搭乗員が養成された。
「震洋」は50隻が一部隊で編成され、岩陰などに潜んで、敵艦が見つけにくい夜間に奇襲攻撃をする特攻だった。
しかし、ベニヤ板のボートという簡素な構造から、戦果はあまり見込まれておらず、50隻の中の数艇が突入できれば、という作戦だった。
搭乗員の多くは飛行機乗りを志した若者たちだったが、戦局の悪化ととともに使用できる飛行機の数が少なくなり、多くの若者が「震洋」の搭乗員に当てられた。
元隊員・新藤貞雄さん(川棚在住・2007年当時):
これで訓練するんかって。私は飛行靴を履いてるでしょ、飛行気乗りだったんですからね。あれっと思って、落胆しましたね。な~んだ、これで死ぬのかって
沖縄で死ぬ覚悟を決めた隊員たちは、自分たちの最後の姿を写真に収めていた。
元隊員・新藤貞雄さん:
若いもん同士ばかりだから、一緒に玉砕という感じは持ってましたね、自分たちが犠牲になって国が滅びなければ。その時は群集心理でしょうね、お互いにね、おい、みんなで頑張って死のうって感じで、漠然とね
進藤さんがいた第25震洋隊の隊員は50人で、うち18人が亡くなっている。多くは特攻による死ではなく、輸送船で戦地に向かう途中に敵の攻撃を受けて命を落としたという。
川棚の訓練所は1945年7月に解散し、「震洋」は大きな戦果を挙げることなく、8月15日に終戦となった。
元隊員・新藤貞雄さん:
犠牲になってくれとる、そのおかげで自分は生きてるから。やっぱりね、忘れんですね、この戦友の姿は
戦後77年が過ぎ、取材した進藤貞夫さんも2022年で96歳。現在は介護施設に入所している。
3年ぶりに遺族出席の戦没者慰霊祭
毎年5月、川棚では戦没者の慰霊祭が行われている。この2年間は新型コロナの影響で規模を縮小していたが、2022年は3年ぶりに遺族約30人が出席した。
佐賀県から訪れた山下さん夫婦。妻・富美江(ふみえ)さんの叔父の名前が石碑に刻まれている。
山下富美江さん:
残念でならんですね。戦地へ出発する時に、実家の方に来たんですよ。白の海軍の服を着てですね、刀を下げて、帽子をかぶってね。かっこいいおじさんだねって思って、それからもう忘れてないです
山下光さん:
追い詰められて、やむなくやったと思うんだけど、(国はなぜ)そんな作戦をとったのか、もう残念でならんですね
「震洋」は、来るべき本土決戦に備えて日本各地の太平洋側に配備されていて、長崎県内では川棚の訓練所のほか、雲仙市の南串山町に基地があった。
しかし、その事実を知る人は少なくなっている。
時代と共に風化しつつある戦争の記憶…。
しかし、その事実は決して忘れることなく伝えていかなければならない。
(テレビ長崎)