2021年12月。開戦から80年の節目となった。
長崎市に原爆が投下された事実は国内外で広く知られているが、長崎県内には他にも数多くの戦争遺構が残されている。

すでに、五島列島沖に沈む旧日本海軍の潜水艦24艦については、近年の調査で全容が明らかになったことをこのコーナーで紹介したが、今回は新たな資料が見つかった「特攻」の地について取材を進めた。

爆薬を積み、敵艦に突っ込む特攻艇「震洋」

「特攻」… 特別攻撃隊。
太平洋戦争の末期、日本の戦況が徐々に悪化していく中で生まれた「体当たり」攻撃だ。

太平洋戦争の末期
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ゼロ戦などの航空機や人間魚雷「回天」が実戦に投入され、多くの兵士が命を落とした。

人間魚雷「回天」

その特攻兵器の一つが、水上特攻艇「震洋」だ。
ベニヤ板でできた小型ボートに1人、または2人が乗り込み、先端には250kgの爆薬を積み、時速50kmほどで敵艦に突入する。

特攻艇「震洋」の模型

長崎・東彼杵郡川棚町には、かつて「震洋」の訓練所があった。大村湾に面している川棚は、波静かな内海のため訓練にも最適で、極秘任務も遂行しやすい場所として選ばれた。

爆薬を積み、敵艦に突っ込んでいく特攻艇「震洋」。

水上特攻艇「震洋」

太平洋戦争末期、全国から多くの若者が川棚へ集まり、2カ月間の訓練を受けて戦地へと向かった。

多くの若者が戦地へ向かった

そして今、生き残った人たちは、訓練所があった川棚に石碑を建て、戦友たちを偲んでいる。
石碑には3500人を超える戦没者、ひとりひとりの名前が刻まれている。

戦没者を祀った石碑のそばには資料館がある。
震洋隊隊員の当時の心境をつづった遺書も展示されている。

「これで死ぬのか…」ベニヤ板の船体に戸惑った記憶

戦争で生き残った震洋の元隊員の1人が川棚で暮らしている。
進藤貞雄さん。初めて取材したのは、2007年だった。

長崎・佐世保市生まれの新藤さんは、19歳で戦闘機の搭乗員を志し、奈良の海軍航空隊に入って、そこで特攻に志願した。

19歳で戦闘機の搭乗員を志した

行き先も告げられないまま列車に乗り、たどり着いたところが故郷の隣町、川棚だった。
その時、初めて震洋の存在を知ったという。

元隊員・進藤貞雄さん:
これで訓練するぞっていうて。私は飛行機靴を履いとるでしょ。飛行機乗りだったですからね。あれっと思って落胆しましたね。何だ、これで死ぬのかって

ベニヤ板の船体という、あまりにも簡素な特攻兵器に戸惑いながらも、川棚で2カ月の訓練を受け、戦地の台湾へ向かった。

元隊員・進藤貞雄さん:
台湾と中国の中間に、澎湖島(ぼうことう)という島があるんですよ。そこに出撃準備しろっていうわけでね。それは、アメリカの船が澎湖島の横を通って、台湾に来るか、沖縄に行くか…。そこから九州、本土を(攻撃する)。結果的には、台湾にあがって命が助かったわけですよ

沖縄で死ぬ覚悟…隊員たちの表情に笑み

台湾にいた進藤さんたちは、命令によってアメリカ軍に占領された沖縄へ向かうことになった。
沖縄で死ぬ覚悟を決めた隊員たちは、自分たちの最後の姿を写真に収めた。

沖縄で死ぬ覚悟を決めた隊員たち

死と隣合わせだった彼ら。なぜか微笑んでいた。

進藤さん 当時20歳

元隊員・進藤貞雄さん:
まあ、ゆっくり考えれば、これもみんな若いもん同士だから、一緒に玉砕って感じは持ってたですね。自分たちが犠牲になって、国が滅びる…。そこまで深くは考えてないですね、その時はね。群衆心理でしょうね、お互いにね。みんなで頑張って死のうっていう感じ。漠然とね

進藤さんがいた第25震洋隊の隊員は50人。
そのうち18人は、船の移動中に攻撃を受けて亡くなった。

元隊員・進藤貞雄さん:
森、上野、岩田ね、辛島、林、渡辺…。犠牲になってくれてる、私らの。自分はおかげで生きとるから…。やっぱりね、忘れないですね。戦友の姿は

当時の光景明らかに…“極秘”資料がアメリカで見つかる

水上特攻艇「震洋」。
極秘の特攻作戦だったため、資料はほとんど残されていなかった。

しかし2021年、終戦直後に撮影された「震洋」の訓練所などの写真、約40枚がアメリカ国立公文書館で見つかった。

写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

内部のエンジンや、訓練艇が大量に港に停泊している光景など、当時の様子が鮮明に写し出されていた。

港に停泊する訓練艇  写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

写真データの分析を行った長崎平和推進協会の松田さんはこう話す。

長崎平和推進協会 写真資料調査部会・松田斉さん:
この写真は元々、アメリカの海兵隊が撮影した写真なんですけども、現代は、国立公文書館というところに全て保存されている。2021年、ある番組の取材の過程でですね、それらの写真、佐世保に上陸した第5海兵師団のカメラマンが撮影した写真を全てチェックする作業がありまして

撮影された写真は約4000枚。1945年、終戦直後の9月以降に撮られたものが多く、旧日本軍の武装解除に伴う査察などで撮影したとみられている。

写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

長崎平和推進協会 写真資料調査部会・松田斉さん:
一種の日本側の武装解除ということで、陸軍、海軍それぞれの部隊や基地をチェックしまして、砲弾であるとか兵器であるとか、そういったものを査察をして、そして命令によって廃棄させる。その際に同行したカメラマンが撮影したものだというふうに考えられます

写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

中には、「震洋」の訓練艇の揚げ降ろしに使われ、現在は基礎台だけが残っている海上クレーンの写真もあった。

写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

長崎平和推進協会 写真資料調査部会・松田斉さん:
地元、長崎で撮影された写真。しかも、これまでほとんど人の目に触れていない写真ということで、(発見したときは)非常に驚いたですね

写真提供:長崎平和推進協会 写真資料調査部会

「懐かしいけど…」戦争遺構が語るもの

2021年末、元隊員の進藤さんに今回発見された震洋の写真を見てもらった。

元隊員・進藤貞雄さん:
おーおー…懐かしいねー。鮮明に覚えています。懐かしいけど、一緒にね、話せる相手がおらんし。昔を思い出したらもう泣けてしょうがない。頑張ります

あれから長い歳月が過ぎ、戦争の事実を知る人も少なくなっている。
時代と共に風化しつつある戦争の記憶…。進藤さんもすでに96歳になっていた。

武装解除に伴い処分された、水上特攻艇「震洋」の新たな事実。
かつて川棚の地に集い、海に散っていった隊員たちが願っていたものとは…
残された戦争の遺構は、今も私たちに問いかけている。

(テレビ長崎)

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