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ドルから円へ…「通貨交換」プロジェクト

今から50年前の5月2日、沖縄本島のあるアパートで男達が待ちわびていたのは、日本本土から到着した総額540億円という巨額の現金だった。

「ドル」から「円」へ… 

それは沖縄が“日本”に復帰するため、どうしても必要だった大事業「通貨交換」。当時、この「通貨交換」を指揮したのが、日銀・那覇支店の元次長、堀内好訓氏だ。

日銀那覇支店初代次長 堀内好訓氏:                           高ぶりましたよね…占領下には沖縄は全然日常の行政とか商売とか、本土とは違うわけだから。ある意味では重い荷物だなと…

太平洋戦争後…アメリカの統治下にあった沖縄は、日本人が暮らしながらも、”日本ではなかった”。車は右側通行で本土との往来にはパスポートが必要…

そして何より、通貨は「米ドル」だった。そんな中、行われた通貨交換は、6日間で米ドルを一気に日本円へと替える“前代未聞の国家プロジェクト”に。しかし、そこに辿り着くまでの間、アメリカ政府と戦いながら“沖縄96万人の財産”を守ろうとした男達がいたのだ。

本土復帰まで9ヵ月と迫った1971年、8月。世界を揺るがした、いわゆる「ニクソン・ショック」でドルは急速に下落。それは、当時、1ドル360円に固定されていたドルの価値が下がり、沖縄の人々が所有する財産が大きく目減りすることを意味していた。

一体、ドルはどこまで落ちるのか…復帰を待たず、早く円に切り替えるよう求める声は高まったが…アメリカ統治下にあって、それは不可能なことだった。

元琉球政府副主席 宮里松正氏:                            早い話が、お年寄りのへそくりや、子どもたちの小遣いまでが目減りするんですよと。実害が出てくる事なんだ…

そう嘆いたのは、当時、琉球政府の副主席だった故・宮里松正。宮里は、総理府総務長官だった山中貞則と水面下の調整を続け、ある時点までなら“1ドル360円での交換を保証する”という密約を取り付けていたが、そのためには沖縄の人々が、どれだけのドルを持っているのか調べる必要があった。

そう考えた宮里が頼ったのが、琉球政府・金融検査庁の主任検査官だった與座章健だった。

沖縄96万人の財産を守れ!“ 極秘作戦「通貨確認」

琉球政府 金融検査庁主任検査官(当時) 與座章健氏:                  「東京の新橋のホテルにいるから、お前すぐ出てこい」ということで、のこのこ行ったら「一つ頼むよ」と言われてさ。「実は、沖縄の人が、いま持っている資産は1ドル360円を保証してもらうことに決まった。ただ、もしこれが事前にバレれば、外部からドルが持ち込まれて大混乱になる。だからこそ、極秘でやりきれ。誰にもバレぬよう準備をすすめて、1日のうちに沖縄の人すべての資産を確認してくれ」と。

與座が託されたのはわずか1日で、沖縄96万人が所有するドルを把握せよという、前代未聞のプロジェクト「通貨確認」だった。沖縄に戻った與座はごく少数の、信頼する部下だけに声を掛ける。

琉球政府 金融検査庁主任検査官(当時) 與座章健氏:                  若いちょっと使えそうなやつを7名だけ選んで七人の侍って言ってさ。

こうして集められた“七人の侍”のひとりが、当時のことをこう証言する。

“七人の侍”の一人が語る極秘作戦

琉球政府“七人の侍”の一人 知念正男氏:                        (夕方5時まで通常業務を行ったあと)行けって言われた先が民間のできたてのアパートがあったんですよ、そこの2階へ行きなさいと…

すでにそこには、與座から声を掛けられた他の6人がいたという。

琉球政府“七人の侍”の一人 知念正男氏:                        ライトが漏れないようにしろ、大きな声で喋るなとか、とても気をつかってですね、新聞記者が嗅ぎ回ってるからライトを消せと言ってライトを消して…

実は、アメリカ統治下にあった沖縄では、正確な世帯数や金融機関の支店の数すら把握できていなかった。ひとつひとつ電話で聞いて確認した。

琉球政府“七人の侍”の一人知念正男氏:                         僕はそういう現場で集計作業。指示された通りのこの表を計算してしかもそろばんで計算ですからね。やっかいですよ。

そればかりか、ある者は、金融機関がどんな手順で行うか「しおり」を作成。またある者は、ドルを確認する法案を突貫工事で作るという荒業も…

琉球政府 金融検査庁主任検査官(当時) 與座章健氏:                  作業手順を決めて、動きを発動させるまでの期間が不眠不休で三日三晩ぐらい。一睡もしないんですよ。

そんな怒濤の3日間を過ごし、訪れた「Xデー」前日…

與座たちは、金融機関を一斉に閉め金の流れを一旦ストップさせた。極秘にしていた“1ドル360円を保証する”という知らせを一気に解禁する。知らせを聞いた人々は、家中の「へそくり」をも、ひっぱり出し翌日に備えたという。なにせ、保証されるのは、この日1日で持ち込まれたドルだけ…

だが、この発表にブチ切れたのがアメリカ政府だった。実は、知念たちは、一度確認されたドル札が再び持ち込まれないよう、紙幣に押すスタンプを用意していたが、そこにあった「祝復帰」という文字がアメリカの逆鱗に触れたのだ。

さて、どうするべきか…”七人の侍”は、考えた。

鉛筆のお尻についてる消しゴムに朱肉をつけて、ドルの端っこに印をつければ、アメリカにもバレないんじゃないか…

そしてやってきた1971年10月9日「Xデー」当日…

銀行の窓口では、ドル紙幣の一枚一枚に“消しゴム印鑑”が押され、360円を保証する証書が渡されていった。こうして数え上げた、沖縄の人々の「手持ちのドル」は、およそ6000万ドルと判明(※1ドル360円換算で約216億円)。それだけのドルを、たった1日で確認し 価値を守るという前代未聞のプロジェクトは大成功を収めた。

“沖縄への特別な思い”を乗せた「540億円の大輸送」

そして、いよいよ本土復帰の日に向け「通貨交換」をやり遂げなければならないのが、日銀だった。沖縄へ540億円もの現金を輸送することになったが心配の種は、やはり…

日銀那覇支店初代次長 堀内好訓氏:                          万が一事故で、あるいは悪漢がいて襲われて、飛行機で運んで墜落させられて、ばらまかれたらどうしようもない…

しかも、運ぶのはお札だけではない。

日銀那覇支店初代次長 堀内好訓氏:                          特にコインが圧倒的に重いから、とてもね大量に載せることができない…というようなことがあってね、空(飛行機)は「ノー」になって、海(船)になったわけです。

そんな中、当時の日銀には沖縄に対し、人一倍特別な思いを持つ男がいた。それが、日銀・那覇支店の初代支店長を務めた新木文雄。口癖があったという。

「君たちは誰の方を向いて仕事をしているんだ!本店を向いて仕事をするな!100%沖縄を向いて仕事してくれ!」

新木に、沖縄への並々ならぬ思いがあったわけ…。実は、太平洋戦争末期、鹿児島県・鹿屋の特攻基地で、“電波の探知”を担当していた新木は、あの有名な電文を傍受する。

「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜(たまわ)ランコトヲ」

それは、沖縄戦の海軍司令官 大田実が自決前に送った電文。地上戦での沖縄県民の献身を伝える内容だった。

日銀那覇支店初代次長 堀内好訓氏:                          (沖縄の)県民もね、軍に協力して、そういう戦士ですよ。だから、後世ね、沖縄に対して格別のね、面倒をみてください。ご高配を賜る。新木さんはそれを身をもってね…沖縄をなんとかしなければいかんっていう気持ちはね、誰よりも強かったと思うし

熾烈を極めた沖縄戦では、民間人を含む、およそ12万人が命を落とした。そんな沖縄に対し、特別な配慮をという電文を受信した、新木の貴重な音声が残っている。

日銀那覇支店初代支店長 新木文雄氏:                        (日銀の)那覇支店というのは、沖縄のために建てた店だということだけ、決して本店のために立ったわけでもないし、内地のためにあるわけでもない那覇支店らしい店に育っていくようにお願いしたいと思います。

そうした思いを乗せた540億円の大輸送…161個のコンテナを5台のトラックで丸2日かけて運びきり、そこから6日間で「ドルから円」へという“世紀の通貨交換”が行われた。

「ドル」から「円」へ…あの日、通貨は確かに切り替わった…しかし今、私たちの沖縄に対する思いは本当に切り替わったのだろうか…?

建議書に込められた願い 屋良朝苗の「失望」

当時の琉球政府主席・屋良朝苗の秘書を務めていた石川元平氏は、屋良の日記の、とある言葉が忘れられないという。

屋良朝苗氏の元秘書 石川元平氏:                           (屋良の)この日記の中には、沖縄の想いっていうのは破れた草履のように扱われてたという、ものすごい失望と、また怒りの想いが記されているわけです。

1971年11月…屋良は、沖縄の思いを、政府に届けるべく「復帰措置に関する建議書」を携え上京している。

実際の建議書:
26カ年にわたる異民族支配の下で(中略)県民が最終的に到達した復帰のあり方は、平和憲法の下で、日本国民としての諸権利を完全に回復することのできる「即時無条件かつ全面的返還」であります。

その願いは、50年が経った今も叶ってはいない。

琉球政府元職員 平良亀之助氏:                            実らなかった、何一つ…。50年後の人達に、この屋良さんが建議書で言っている「基地のない平和な島」というのをバトンタッチできるかというのが、僕らの宿題だと思います。

(「Mr.サンデー」5月15日放送分より)