3月25日で、能登半島地震の発生からちょうど15年となる。

当時、震度6強の揺れで多くの住宅が倒壊した石川・輪島市門前町道下で1カ月あまり取材を続け、出会ったのが西町とし子さん・紀美子さん親子。

再び能登が地震の脅威にさらされている今、ふるさとへの思いを聞いた。

能登半島地震から15年

西町紀美子さん:
地震が一番怖いなと思って。東北のこの間の(震度)6強。あれ聞くとね、本当に思い出して、ぞっとするわ

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西町紀美子さん(81)。15年前のあの日の光景を、忘れたことはない。

2007年3月25日、午前9時41分58秒。マグニチュード6.9、最大震度6強の揺れが能登半島を襲った。

能登半島地震で崩れた道路
能登半島地震で崩れた道路

この地震で1人が死亡、338人が重軽傷を負い、住宅の被害は全半壊合わせて2400棟以上にのぼる。

特に深刻なダメージを受けたのが、輪島市門前町。
道路が寸断され孤立した集落から、船で脱出した住民もいた。

道路が寸断され、船で脱出する輪島市の住民たち
道路が寸断され、船で脱出する輪島市の住民たち

西町さんと出会ったのは、多くの住宅が倒壊した道下地区。崩れかけた納屋の中で、1人、食器を運び出す作業をしていた。

紀美子さんは崩れかけた母屋から食器を運び出していた
紀美子さんは崩れかけた母屋から食器を運び出していた

西町さんの自宅の蔵と納屋は全壊。母屋も倒壊の危険があると判断された。

西町紀美子さん:
ここ離れることにしたんです

――どこに行かれるんですか?

西町紀美子さん:
京都の方へ

――京都に娘さんがおられるんですか?

西町紀美子さん:
はい。母と2人でしょ。(家に)これだけ金かけても無駄やから

しかし、母のとし子さんは。

西町としこさん:
家で死ねたらいいです。つぶれた家の下敷きになってもいいさかい、家で死にたい

「ふるさとを離れたくない」
「ふるさとを離れたくない」

「ふるさとを離れたくない」

そんな母の思いをくんだ紀美子さん。母屋は解体したが、残った離れで2人寄り添って暮らしてきた。

解体される西町家の母屋
解体される西町家の母屋

毎月の楽しみは「ひ孫の写真や動画」

母・とし子さんは2020年11月、他界。

紀美子さんが懸命に自宅で介護を続けたため、施設に入ったのは最後の8カ月だけだった。

西町紀美子さん:
99歳と10カ月、大往生。寂しいというより、何かほっとした…

紀美子さんは今、ひ孫の写真や動画を見ることが楽しみの1つ。

西町紀美子さん:
これが楽しみ、毎月来るのが。「私、毎日待ってるんですけど」って(笑)

毎月送られてくるひ孫の写真
毎月送られてくるひ孫の写真

しかし、その楽しみを一緒に分かち合う人はもういない。

――しゃべり相手がいない?

西町紀美子さん:
うん、おらん。だから日曜日に誰ともお話しすることがない。月曜日に(配達業者が)お弁当を持ってくるときには「ありがとうね」「きょうは寒いね、暑いね」とか「ご苦労さま」って話しするけど、日曜日はそれもないから。電話も全然かかってこないし、私も(外に)出ないし、どこも

問われる「完全復興」

輪島市は2021年、総持寺祖院の修復完了をもって、能登半島地震からの完全復興を宣言した。
しかし、この15年で旧門前町の人口は3000人近く減り、元々高かった高齢化率は6割を超えた。

「完全復興」とは一体、何なのか?

西町紀美子さん:
もう道下(地区)はずっと空き家。だんだんと空き家が増えてね…。向こうの裏通りのばあちゃんの妹、家を財産放棄して、国のものになってしもた。いずれ私もそうなるんじゃないかと思う。(東京にいる)次男坊が継ぐと言いながらも、来るか来んかわからん

道下には空き家が増えつつあった
道下には空き家が増えつつあった

取材を始めたとき、紀美子さんは、母が亡くなったあとは京都に住む長女のところへ行くと話していた。しかし今、裏の畑で野菜を育てる日々を紀美子さんは送っている。

西町紀美子さん:
子どもが野菜を欲しがるようになったやろ。全部私が作って、タマネギも全部(子どもたちに)送るんですよ

――自分で食べるのではない?

西町紀美子さん:
そうそうそう。だって私弁当取ってるからいらない。それが生きがい

京都に行くと話していた紀美子さんは、「一日でも家にいたいと思うようになった。やっぱり家がいい、ここがいい」と、母のとし子さんと同じように、ふるさとで一生を終えたいと願うようになった。

ふるさとで一生を終えたい
ふるさとで一生を終えたい

そんな人々の思いをどう支えていくのか。
心の復興は、まだ道半ば。

(石川テレビ)

石川テレビ
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