東京電力福島第一原発がある福島県双葉町。

20年に渡って双葉町長を務めた岩本忠夫氏には「功労者」と「裏切り者」、2つの相反する評価がつきまとう。

理由はかつて反原発を訴えていた岩本氏が、町長就任後は原発を容認、そして増設へと主張を変えたからだ。

原発事故から4か月後に何も語らないまま亡くなった岩本氏。後編では、なぜ岩本氏が主張を変えたのはその裏に隠された決断と葛藤に迫った。

【前編】なぜ、福島県双葉町に“原発”が建設されたのか…反原発を唱えた男の思い

原発によって豊かになった双葉町

原発を推進する国が制定した電源立地促進対策交付金制度(電源三法)による双葉町への交付金は、合わせて30億円にのぼった。また巨額の固定資産税によって、双葉町の財政規模は原発ができる前の3倍にも膨れ上がった。

役場庁舎は4階建て、議場の天井には豪華なシャンデリア、これまで双葉地方にはなかった立派な図書館など、箱ものが次々に整備された。

当時の双葉町民は「原発ができる前から比べると、だいぶ生活が楽になってるようだね。みんな原発に勤めているから」、「やっぱり町は変わったね。まず建物が良くなった。町そのものも、人口も少しずつ増えてるしね」と話していた。

岩本町長の誕生、そして反原発から原発容認・増設へ

1985年(昭和60年)、双葉町を揺るがす事件が起きた。下水道工事をめぐる汚職事件で役場職員が逮捕されたのだ。

この事件をきっかけに、原発を誘致した当時から22年にわたって双葉町長を務めた田中清太郎氏は責任をとって辞職した。

こうして出直し町長選挙が行われ、クリーンな政治を求める声は、岩本氏を再び表舞台へと導くことに。そして岩本氏は対立候補に大差をつけて当選を果たした。

岩本氏は「町民の心を一番大事にしたいと思います。町民の心を大事にして、町民の声を具体的に町政の中に活かすということを、まず基本にしていきたいと思います」と当選の喜びを語っている。

かつての反原発のリーダーが原発の町の町長に就任したのだ。

さらに岩本氏は、「これから一人一人が手を握りあって、本当に一歩一歩、堅実に前向きに歩んでいただきたいと思います。私も微力でございますが、私の命をこの双葉町の再建を果たすために投げ出しているつもりです」と初訓示を行った。

岩本氏が訓示の中で口にした“双葉町の再建”という言葉。実は、岩本氏が町長に就任した当時、双葉町の財政は逼迫していたのだ。

汚職事件の発端となった総額180億円にのぼる下水道整備事業は、まだ半分ほどしか完成してなく、岩本氏が町長になって間もなく、電源三法による交付金も終了した。

豊かになったはずの街は、苦境に立たされることに。

こうして新たな財源を求めた岩本氏の選択が“原発の容認と増設”だった。

当時の岩本氏は「色々あると思いますけど、しかしこれはもう私に与えられた大きな仕事であるというふうに考えております」と原発増設について語っている。

福島第一原発に6つある原子炉のうち、隣接する大熊町に4機、双葉町は2機あり、当然、双葉町への交付金は大熊町より少なかった。

岩本町長の誕生に尽力した元双葉町の議員、丸添冨二さんによると、7号機と8号機の増設を求める町民の声は当然だったという。

丸添さんは「(岩本の考えが)変わったのは、やはり町民の声と経済ではないかと。お金がないとやりたいことができない。7、8号機作ることで50億円の金が出るから」と当時を振り返る。

一方、「金に目がくらんだ裏切り者」と岩本氏に対して批判的な声が上がったのも事実だ。

岩本の反原発の思想に共感していた双葉地方原発反対同盟の代表・石丸小四郎さん(76)はこう話す。

「あれほど原発反対運動を一生懸命やって、批判的だった人物が原発による交付金がなくなったら原発で、という姿勢には唖然としました」

こうして岩本氏は原発の容認、そして増設へと一気に舵を切る。“原発と生きていく”ことが岩本氏の選択だった。

原発作業員の「贖罪」とは

「仮設住宅の生活と比べるとだいぶ変わりましね。ようやく落ち着いて生活できる場が持てたかな」

こう語るのはいわき市で避難生活を送る、双葉町民の河野弘幸さん。福島第一原発で働き始めて30年になる。

原発事故の翌年に避難先で亡くなった河野さんの父・清二さんは、原発での仕事を求めて東京から双葉町へやってきた一人だった。

岩本氏が進めた原発の増設計画は、原発作業員の河野さんの父にとって願ってもない話だった。原発を作り、発電し続けなければ仕事がなくなるという、原発の街ならではの事情があったのだ。

「原発があっても結局出稼ぎしなきゃいけない、それは自分も原発に携わって初めて見えてきた。やっぱり原発頼みで仕事をしてきた者にとっては、7、8号機の増設は願ってもない話。あの当時は是非とも7、8号機の建設工事を持ってきてほしいなって思ってた。建設が始まればなって。そしたら地元から離れないでいられるからね」(河野さん)

2019年3月に河野さんは、双葉町へ向かった。自宅の取り壊しが決まったからだ。自分の家に入るにも、放射性物質が付着するのを避けるための防護服が必要だった。

居間には、父が優秀な原発作業員として受け取った表彰状が飾られていた。

「これが親父の自慢だった。現場でストイックに仕事をやって、本当に職人気質っていうのかな。原発の安全性を親父も信じてたと思うのね。でも3月11日で全てが水の泡。あの爆発と同時に親父のプライドも培ってたものもすべて吹き飛んじゃったのかな」(河野さん)

父は東京に電気を送ることを誇りにしていた。

河野さんが原発で働くことを決めたのも、そんな父に憧れたからだだった。

「東電(東京電力)に『こんなもの作っちゃって、ごめんね』って言って欲しいけど…。一時はこの街も潤って栄えたけども、こんなとんでもないもの、作っちゃってごめんねって。わずか4、50年でね、街の全てがこんなことになるって、思ってもみなかった。現場に行くのは、本心から言えばこれは贖罪なのかもしれない。原発で生計を立ててきて、自分も安心してたところあった。過信だよね」(河野さん)

原発を推進する一方で、絶対的な安全対策も

「原子力 明るい未来のエネルギー」と掲げられた双葉町の象徴でもあった看板は、岩本町長時代に設置されたもの。

しかし、岩本氏には反原発運動を繰り広げていた当時から、一貫して変わらなかった主張がある。原発を容認し、増設を求める一方で、その条件として必ず付け加えていたのが、絶対的な安全対策だった。

1992年には役場に原子力対策室を設置し、原発事故が起きた際の町民への広報体制や避難方法を確立。核と人類、故郷と原発が共存するために取った対応策だった。

「やっぱり安全が一番。双葉町、双葉地方が発展した中で3.11のあの大震災。その後の原発事故で、やっぱり原発推進してきたその責任として、どうして東電は事故を起こしてしまったのかなって。私はそういうものに対してなかなかうまい表現はできないんだけど、(父は)もう自責の念というか、(そういう感情が」あったと思うんだよね」(久人)

しかし、双葉町への7号機、8号機の増設は実現しなかった。そして起きてしまった原子力災害。“安全”を訴え続けた岩本氏の願いは届かなかった。

いつかは慣れ親しんだ双葉町へ戻りたい――元住民の想い

双葉町長を務めた父のあとを追うように、息子・久人さんは双葉町議会議員になった。選挙では3回続けてトップ当選を果たしている。

「町民の気持ちがバラバラにならないということ。そのために今、町も議会も一緒になって、町民に寄り添い、町民のそばにいるような、そういう活動、行動を議員としてとっていかなくちゃいけない。そこは強く思って議員活動をやっております」

平成最後の正月。いわき市にある復興公営住宅で双葉町の伝統行事が開催された。300年以上続く双葉町ダルマ市がこの場所で開催されたのは初めてのこと。避難先での開催にも関わらず、多くの町民が会場に駆けつけた。

久人さんは芸能保存会のメンバーとして、太鼓を披露。

廃炉作業に当たっている河野さんも、この日は休みを取って盛り上げ役を買って出た。

大型バスで会場にやってきたのは、埼玉県に避難する双葉町民。「懐かしくて待ってました。みんなに会えるから」と笑顔で応える人たち。知った顔に会うことさえ、今の双葉町では難しいことになっていた。

高さ3メートルのダルマを使う巨大ダルマ引きは、町民が一本の綱でつながる双葉町の風物詩。

「父は町長になってから“街づくりは人づくり”と一貫して言ってきた。人と人とのつながりや、助け合い支え合いとか、心だったり、優しさだったり、そういったものを父は一番大切に思ってたんじゃないかな」(久人さん)

久人さんはこれから時間がかかったとしても、いつかは双葉町へ帰りたいと考えている。

原発とともに歩んだ双葉町のこれから

震災と原発事故から丸8年を迎えたこの日。いわき市で双葉町の追悼式典が開かれた。

河野さんが行っている福島第一原発の廃炉作業は、これから40年続くとも言われている。でも、いつまで原発作業員として働くことができるのかは、わからない…。

そんな思いを抱えながら河野さんは「自分には原発というか、福島第一原発しかないと思ってる。その気持ちで毎日通っている感じかな」と話した。

一方で、原発反対同盟の代表を務める石丸さんが今取り組んでいるのは、廃炉作業に携わる作業員の被ばく問題。

この日、石丸さんが行う集会で出たのは、初代代表・岩本氏の話だった。

「岩本忠夫さんは(原発の)増設を言ったので、私たちの内部では評判はよろしくないんですけど、(反原発運動を)本当によく頑張った人です。私は今でも尊敬しているんです」

2019年4月、久人さんはこの日、桜を見るために双葉町へ帰ってきた。

前田川沿いはかつて、多くの双葉町民が花見を楽しんだ場所。そして、戦後間もない頃にこの桜を植えたのは、青年時代の岩本氏だった。

「未来まで続く桜の木を植えて、後世に残したいっていう気持ちだったのかな」と小さい頃から見慣れた桜を見上げて語る久人さん。

実は、父が植えたという事実を知ったのは最近のことだという。

「原発と共に歩んできた町ですから。その選択にはね、誤りはなかったと、信念を持って、進めてきたことだと思うんでね。ただ、過去は過去として、未来に向かって舵を切っていかないといけない。だから決して否定することではないんだけども、これから原発とは別な道を歩んでいかなくちゃいけないと思う。新たな道を切り開いていくしかないんじゃないですかね」

9年間、帰宅困難区域になっていた双葉町は、2020年春に一部地域の避難指示が解除された。

久人さんがこれから歩む道は、父が歩んだ道とつながっている。