日本国内初開催の冬季五輪・札幌オリンピックのスキージャンプ競技が開催された大倉山ジャンプ競技場。着地地点の傍らには競技場で最も遠くまで飛んだ「バッケンレコード(最長不倒距離)」が記された看板がある。
2000年代、最も長く刻まれていた記録は、145メートルを飛んだ金子祐介選手のもの(2005年)だった。
トリノオリンピック代表候補でもあった金子選手は、合宿先でジャンプ中に事故に遭い、一命を取り留めたものの脳に深刻なダメージを受け、身近なものの名前すらわからなくなる「高次脳機能障害」を負った。
フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が、第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を各局がドキュメンタリー形式で発表。
今回は第17回(2008年)に大賞を受賞した北海道文化放送の「バッケンレコードを越えて」を掲載する。
前編では、再びジャンプの世界に戻るためにリハビリに打ち込む金子選手、そして常に支え続けた婚約者のひたむきな姿に迫る。
(※記事内の情報・数字は放送当時のまま掲載しています)
スキーが外れ…五輪代表候補を襲った事故
「目から下で折れてない場所はないっていうぐらい、鼻も下顎も上顎も目の下も折れて…」
自身を襲ったけがについてこう語った金子祐介選手。
日本国内初開催の冬季五輪・札幌オリンピックのスキージャンプ競技が開催された大倉山ジャンプ競技場で、バッケンレコード(最長不倒距離)となる145mを飛んだ8カ月後の、2005年11月。フィンランド北部のロバニエミで、数カ月後に迫ったトリノオリンピック代表候補の一人として合宿中だった。
事故は練習中に起きた。空中でスキーが外れ、ランディングバーン(着地後の滑走路)にあごから真っ逆さまにたたきつけられたのだ。
共に合宿に参加した湯本史寿選手は、「血の量がすごくて、白目をむいたような状態。素人目から見ても『これはまずい』というのは、一目瞭然」と語り、コーチも、「呼吸をしていない状態だったが、その場で応急処置をしたおかげで、救急車が来るまでなんとか耐えた」と振り返った。
顔面中を複雑骨折し、現地で緊急手術を受けた金子選手は、昏睡状態のままチャーター機で帰国。目覚めたのは、事故から10日後だった。
意識のない金子選手の姿を見た父・茂さんは、次のように語っている。
「ショックだった。ぱっと見た瞬間、息子に見えなかった。先生の第一声が『1週間が山です』。そのときは、何かに打たれたような気持ちだった」
婚約者の名前も…脳へのダメージでまるで別人に
10日間の昏睡(こんすい)のあと目覚めた金子選手だが、フィンランドに行く前とはまるで別人のようだった。
事故のことを全く覚えておらず、フィンランドでの記憶は、すっぽり抜け落ちていた。
「かめや」と名乗り、自分の名前も覚えていなかった。さらに一番大切な人である婚約者・長井ひとみさんの名も覚えていなかった。
歯科衛生士であるひとみさんは、事故を受け仕事を休職。札幌から上京し、金子選手を付きっきりで看護した。
「生死に直面したときに、生きててさえくれたらいいって。一生介護しなければいけないような状態だとしても、生きててさえくれたらいい」
こう口にしたひとみさんは、金子選手のリハビリの様子をビデオカメラで記録し続けることにした。二人三脚のリハビリが始まった。
脳に深刻なダメージを負った金子選手のリハビリは、まず“言葉”を取り戻すことから始まった。
症状は脳挫傷による「高次脳機能障害」。脳の側頭部などにダメージを受けた影響で、身近なものの名前すらわからなくなっていた。
しかしあるとき、「トリノに行かなければ」と言って突然立ち上がろうとしたこともあったという。
さらに集中治療室を出てから10日目には、ひとみさんの目の前でクローチング(ジャンプの助走の姿勢)をとった。
ジャンパーとしての金子選手の本能が目覚めた瞬間だった。
「彼の真剣なまなざしを見て、ジャンプに対する思いが深いことが、ひしひしと伝わってくるというか。飛べるようになったらいいなと思ったし、早く飛ばせてあげたいなと」(ひとみさん)
婚約者の支えで回復 膨らむジャンプへの思い
1976年、金子選手は、バッケンレコードを記録した大倉山のふもとで生まれた。
ジャンプ選手だった父・茂さんの背中を見て育った金子選手は、小学4年生の時に地元・札幌のジャンプ少年団に入団。中学・高校と、ジャンプ一色の生活を送った。
「常にジャンプ、ジャンプ、ジャンプ。みんなには、『休みくらい気分変えて、別のことした方がいいんじゃないの?』と言われたが、自分にはジャンプしかないと思っていた」(金子選手)
オリンピック出場が夢だった金子選手。
1997年、大学2年生の時には、国際大会のコンチネンタルカップで優勝。若手のホープとして注目を集めると、長野オリンピック・スキージャンプ団体で金メダルを獲得した全日本のコーチ・菅野範弘さんが監督を務める東京美装に就職した。
2002年ソルトレークシティオリンピックの代表には手が届かなかったが、トリノオリンピックを翌年に控えた2005年シーズンは優勝争いに絡む活躍を続けた。
子どものころからの夢が、30歳を目前に現実に近づきつつある。けがが起きたのは、まさにその矢先だった。
事故から1カ月後、金子選手の記憶は着実に回復し、少しずつ筋力に負荷をかける訓練にも挑戦していた。
リハビリに打ち込む金子選手の横には、常に温かく、時には励ましたり、言葉をかける婚約者・ひとみさんの姿があった。歯を磨くこともままならない金子選手の歯を優しく磨き、髪も器用に整えた。
妹・真弓さんは、兄がひとみさんと交際を始めてから、性格が変わったと語る。
「時々、厳しすぎると感じられた性格すら丸くなったような気がした」
家族の間にも会話と笑顔が増えたという。
回復が進むにつれ、ジャンプへの思いがどんどん膨らむ金子選手。家族と一緒に病院の外に散歩に出掛けた際も、ジャンプのことばかり考えている姿がひとみさんのカメラに映っていた。
そして事故から1カ月半後、金子選手は東京の病院を退院し、札幌市で治療を続けることになった。
しかし本当につらい時期は、ここから始まった。
後遺症に悩まされる日々 「死にたいと…」
退院から9日。トリノオリンピック、スキージャンプ代表の会見が札幌市で行われ、原田雅彦選手、葛西紀明選手らベテラン勢のほか、伊東大貴選手(当時20)、伊藤謙司郎選手(当時16)といった、金子選手より一回り若い選手もメンバーに選ばれていた。
その直後、金子選手の姿は、大倉山で開かれた全日本選手権の会場にあった。
「大倉山に行っても飛べないし、バッケンレコードを見ても、今はこんな感じだということが受け止められなくて。それ以降は行かなかった」
この頃の事をこう振り返った金子選手。ようやく自分の状況を把握し始め、苦しみのどん底にいた。
「けがして以降は、コツコツやろうとしても、やりたくてもやれない。そういう時間がしばらく続いていくと、やる気もなくなってくる。『また朝が来てしまった』という感じで毎朝が始まる。行為には起こさなかったが、生きてる意味がないというか、生きていることがつらい。死にたいとは思った」
ひとみさんは、「心の葛藤が一番つらかった時期だと思う。脳の回復に伴い、心配や不安が心の中を占めてしまって。『元に戻るのか、選手としてやっていけるのか』、全部が落ち込む材料というか」と、辛い胸中を語った。
けがの後遺症に悩まされ、復帰のめどもまったく立たない中、金子選手は、すがるような思いでトレーニングを続けていた。
事故後初めてのジャンプに成功「体が自然に動いた」
2006年7月26日。事故から8ヶ月が経ったこの日、金子選手はけがをしてから初めてジャンプ台に立っていた。
地道にトレーニングしていた金子選手に「飛んでみるか」と声をかけてくれたのは、所属チーム・東京美装の菅野監督だった。
「『飛びたい』と目が訴えている。飛ばせないと次に進んでいけないと感じた」(菅野監督)
ジャンプ台に立ち、緊張の中で飛び出していった金子選手は、40メートルのジャンプを見せた。金子選手とひとみさんにとっては、大きな大きなジャンプだった。
「初めて飛ぶ時はすごく不安だったが、ゲートから手を離したら体が自然に動いてくれて。あまりにもうれしくて、泣いてしまった」(金子選手)
カメラを向けていたひとみさんも、涙を見せる金子選手のもとにすぐに駆け寄った。
「このジャンプは、人生の中でも大きな一本だったと思う」(ひとみさん)
東京の病院を退院後も手術と入退院を繰り返していた金子選手。
練習とはいえジャンプを飛べたことは、本人を前向きな気持ちにさせていた。
そうした中、金子選手の復帰戦、第二のジャンプ人生のスタートが2006年の開幕戦・名寄ピヤシリジャンプ大会に決まった。
迎えた大会当日。
「こういう状況でシーズンに向かう経験がないので、できるだけ出られる試合には参加したい。だから、結果はあまり考えていない」
そう話した金子選手の結果は、10位だった。
復帰1年目のシーズン、金子選手は15の大会に参加。2月に秋田で行われたわか杉国体では優勝を果たし、2人にとって忘れられない大会となった。
札幌から応援に駆けつけたひとみさんの前で、1位の賞状を高々と掲げる。1年前には考えられなかった光景だった。
後編では、金子選手を支え続けた妻・ひとみさんを襲った病。「今度は自分の番」と、妻を支える金子選手に告げられた引退勧告…。多くの困難に直面しながらもラストジャンプに臨み、新たな道を歩み始めた2人の姿を追う。
(【後編】夫を支えた妻を襲った病、そして引退勧告 困難に立ち向かいバッケンレコードを越えて見えたもの)
(第17回FNSドキュメンタリー大賞『バッケンレコードを越えて』北海道文化放送・2008年)