投票日まで50日を切った韓国大統領選挙が荒れに荒れている。当初は候補者本人の疑惑が盛んに取り上げられたが、疑惑追及の矛先はいつの間にか家族に向けられている。まさに政策論争そっちのけである。中でも韓国メディアが多くの時間と紙面を割いて伝えているのが、最大野党「国民の力」尹錫悦(ユン・ソギョル)候補の妻の疑惑だ。いまや選挙戦の“陰の主役”と言っていいほど、彼女の経歴や過去の発言が取り上げられているのだ。

3月9日に予定されている大統領選挙は、与党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)候補(57)と、最大野党「国民の力」の尹錫悦(ユン・ソギョル)候補(61)の2人が有力候補として選挙戦を展開してきた。その尹候補の妻、金建希(キム・ゴンヒ)夫人(49)が親しい記者と交わした通話内容の一部が16日、放送された。

金夫人とイ・ミョンス記者 (1月16日MBCより)
金夫人とイ・ミョンス記者 (1月16日MBCより)
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52回、7時間以上の通話内容とは…

韓国のテレビ局MBCが放送したのは、インターネットメディアの記者と金夫人の通話内容。記者が2021年7月以降、実に52回、7時間以上に及ぶ金氏との通話を録音していたものだ。MBCはこの記者から通話の音声データを入手したという。

放送された通話内容では、金夫人が記者に、当時党内で尹氏と指名争いをしていた対立候補に批判的な質問をするよう促したり、女性が性的被害を訴える「#MeToo運動」について、「表面化するのは金を渡さないからだ」などと言及していた。(#MeToo発言について金夫人はMBCに送った書面で不適切な発言として国民に謝罪)

また韓国紙ハンギョレによると、金夫人は2021年7月、「国民の力」について「良い党ではなく、ひどくアマチュアだ」と批判もしていた。

夫人「私はスピリチュアルな人間だから」

放送を予告したMBCに対し、金夫人が放送中止を求める仮処分を申請したり、「国民の力」関係者がMBCに詰めかけ放送中止を求めて押し問答になるなど激しい攻防が続いた。金夫人の発言内容に注目が集まる中、裁判所は金氏が大統領候補の妻であり、公的な人物だとして、一部を除いて放送を許可した。各メディアの当初の取り上げ方を見ると、さほど重要な内容ではないと受け止められたかに思われたが、その後、金夫人の以下のような発言が注目されることになる。

金建希氏:
「自分はナイトクラブに行くのを嫌う性格だ。私はスピリチュアルな人間だからそんな時間はむしろ読書し、導師と『人生とは何か』といった話をするのが好きだ」

金夫人はかつて夜の街でホステスとして働いていたとされる疑惑をこのような言葉で否定したのだが、放送翌日の17日、韓国紙「世界日報」が「尹錫悦夫婦と親密な“巫俗(ふぞく)人”、選挙本部で顧問の仕事」と報じたのだ。

通話内容報道で再燃した「巫俗人」議論

日本語に訳しづらいが朝鮮半島の土着宗教を司るのが「巫俗人」で、ムーダンとも呼ばれる。クッと呼ばれる祭祀で呪文や神託を唱えながら、国や地域、家の安泰や病気の治癒を祈る風習は今も韓国社会に残っている。言わば、宗教的職能者、霊能者、占い師、シャーマンといったところだろうか。これまでも韓国で政治と宗教がかかわるニュースでたびたび登場した言葉だ。

“巫俗人”とされる男性と尹候補 (1月18日MBCより)
“巫俗人”とされる男性と尹候補 (1月18日MBCより)

記事では“巫俗人”の61歳の男性が尹陣営の「顧問」の肩書で活動し、選挙対策本部全般に影響力を行使しているとしている。尹候補の発言や日程、選対本部の人事にも関与しているというのだ。尹候補は金夫人の紹介でこの“巫俗人”と知り合ったとも報じている。

さらに世界日報は尹候補が選対本部を訪れた際、この“巫俗人”が会場全体を指揮しながら尹候補を案内し、尹候補との親密さを誇示するように肩や背中をなでる映像を公開した。この映像は18日MBCなども報じ注目された。

これまで尹候補が金夫人の紹介で占い師や宗教家などに会ったという報道もあり、韓国の通信社の連合ニュースは「しばらく静かだった『巫俗人議論』が、金氏の通話記録公開で蘇った」としている。

巫俗人議論と言えば、弾劾で失脚した朴槿恵前大統領の知人女性で職権乱用や贈収賄などに関わったとして懲役21年の判決を受けた崔順実(チェ・スンシル)氏に巫俗や占いに関連付けられた疑惑が多く、当時盛んに報じられた。

それだけに「国民の力」は巫俗人報道を即座に完全否定。尹候補は「あきれる話しだ」と一蹴したが、その一方で「国民が誤解する可能性があるならば早急に対応すべき」として、この“巫俗人”が活動していた選対本部の部署をすぐに解散した。

対する与党「共に民主党」は部署の解散を「証拠隠滅だ」と批判。問題となっている巫俗人の人物像や選挙への関与を明らかにすべきだと主張した。李候補は「21世紀の現代社会、核ミサイルが存在する社会で、シャーマニズムが戦争などの決定に影響を及ぼすことがあっては絶対にいけない」と早くも巫俗人議論を選挙戦に利用している。

謝罪する金夫人 (2021年12月26日)
謝罪する金夫人 (2021年12月26日)

経歴詐称、違法賭博、買春疑惑…噴出する「家族リスク」

尹候補の妻、金夫人自身は2007年に大学の客員教授ポストへの志願書を提出した際に、職歴や受賞歴を偽った疑惑が報じられ、2021年末にカメラの前に姿を現し国民に謝罪した。陣営の内輪もめもあり尹候補の支持率は急落。李在明候補に一時逆転を許すことになった。その後、陣営の劇的な和解をアピールし、支持率を回復したが、金夫人の通話内容から「巫俗人」疑惑が再び持ち上がった形で今後の支持率の動向に影響しないか注目される。

一方、与党「共に民主党」の李候補サイドでは、長男が常習的に違法賭博を行っていた疑惑が浮上。李候補はすぐに事実を認め謝罪したが、その直後に買春疑惑も持ち上がるなど、家族に関わる疑惑=「家族リスク」が選挙情勢を左右する事態となっている。(長男の買春疑惑について李候補は否定)

乱高下する支持率…“第3の候補”が急浮上

妻の経歴詐称、党選対本部の内輪もめで尹候補の支持率は年末から年始にかけて急落した。世論調査機関「韓国ギャラップ」の調査では2021年12月14日時点で李候補36%、尹候補35%と両候補は拮抗していたが、年明け1月4日時点では李候補36%、尹候補26%と差が広がった。この時点で大きく支持を伸ばしたのが、それまで泡沫候補扱いされていた「国民の党」の安哲秀(アン・チョルス)候補(59)だ。支持率が15%と前回調査より一気に10ポイント伸ばしたのだ。

出馬会見する安哲秀候補 (2021年11月1日)
出馬会見する安哲秀候補 (2021年11月1日)

医学博士でもある安氏はコンピューターウイルス対策ソフトを開発し、無料で配布。「韓国のビルゲイツ」などとも呼ばれ、2012年、2017年に続いて今回も大統領選挙に出馬した。報道陣に「私だけが李在明候補に勝てる候補だ」と話した安氏。しかし2012年の大統領選の際には、終盤で当時の文在寅候補支持を表明し出馬を辞退した。野党陣営が政権を奪取するためには候補の一本化が不可避とされているだけに、今回尹候補との野党候補一本化に応じるかが選挙戦終盤の最大のポイントになる。

李在明候補と尹錫悦候補 (1月18日)
李在明候補と尹錫悦候補 (1月18日)

旧正月前のテレビ討論が分岐点に?

最新の世論調査では、尹候補35.9%、李候補33.4%、安候補15.6%(18日・中央日報)と再び尹候補と李候補が僅差で並んだ形だ。ただしこの世論調査は金夫人の通話内容が報じられる前に実施されているため、さらに支持率が動く可能性がある。

2月1日に旧正月を迎える韓国では、1月末に尹候補と李候補によるテレビ討論の開催が模索されている。韓国でテレビ討論は投票行動に大きく結びつくとされており、旧正月前の両者の直接対決が3月に迫った大統領選の行方を大きく左右するかもしれない。

【執筆:FNNソウル支局長 一之瀬登】

一之瀬登
一之瀬登

FNNソウル支局長。東京オリンピック・パラリンピック担当キャップを経て2021年10月ソウル支局に赴任。辛いものは好きだが食べると滝汗。