わずか20年ほど前まで、法律によって子どもを産むことを許されなかった人たちがいる。

「不良な子孫の出生を防止する」と謳った旧優生保護法により、遺伝性とされた病気を持つ人や知的障害のある人は、不妊手術を強いられていた。

戦後最大級の人権侵害といわれる旧優生保護法下での不妊手術。1996年に優生保護法が母体保護法に改正されるまで、その手術を受けたのは全国で2万4991人といわれている。

不妊手術によって人生を奪われた人たちの「痛み」は、なぜ放置され続けてきたのだろうか。


前編では、被害者の体験を交えながら、旧優生保護法が施行された当時の不妊手術の実情に迫る。
 

16歳のとき、何も知らされないまま不妊手術を強いられた

2018年、「旧優生保護法」による不妊手術を強いられた人たちが、全国で裁判を起こした。宮城県仙台市に住む73歳の飯塚淳子さん(仮名)は、そのうちの一人だ。

「この手術さえなければ、まだ幸せがたくさんあったと思う。できれば16歳に戻りたい」

こう話す飯塚さんは、16歳の時、遺伝性の軽い知的障害を理由に、不妊手術を強制された。

現在は、エレベーターのない市営住宅に一人暮らし。過去に結婚はしているが、夫は家を出ていった。

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飯塚さんは終戦の翌年、1946年に小さな農村に生まれた。父親は体が弱く、母が山菜取りの仕事をしていた。きょうだいは弟と妹が6人。一家は生活保護を受けていた。

母は仕事で忙しく、学校の学芸会や運動会を見に来ることができなかったという。飯塚さん自身でさえ、母の手伝いに追われて学校に行けない日もあった。

飯塚さんは15歳で知的障害児の施設を卒業すると、よその家に奉公に出された。住み込みで働いて一年が経った頃、「奉公先の奥さんに、『出かけるからついておいで』と言われた」という。

連れて行かれたのは、川沿いのベンチ。そこで手渡されたおにぎりを食べてから、近くに建つ診療所へと向かった。中には、なぜかしばらく会っていなかった父もいた。飯塚さんには、そこからの記憶がないという。

「眠り薬がおにぎりの中に入っていたのか、父親と会った後のことがまったくわからない。子どもを生まれなくする手術をされて、それで終わりだっんたでしょう。本当にみじめです」

その建物は、不妊手術を行う県立の診療所だったのだ。
 

「国民の数と質を管理するため」に生まれた優生保護法

飯塚さんに不妊手術を強制した法律は『優生保護法』。
終戦から3年後、1948年に作られた法律だ。

当時の日本は、戦地から復員してきた人たちで人口が急増していた。住まいも食料も不足する中、乱暴されて望まない妊娠をした女性が違法な中絶をして、命を落とすこともあった。

こうした状況を打破しようと、中絶の解禁を認める法案が国会で議論される。

優生保護法の策定に奔走した一人に、産婦人科医でもあった谷口弥三郎参議院議員がいる。先天性の遺伝病を持つ人などが増えないように、この法律が必要だ。彼は、1948年の参議院厚生委員会で述べていた。

当時の資料には、このように書かれている。

“子孫の将来を考えるような比較的優秀な階級の人々が産児制限を行い、無自覚者などはこれを行わんために、国民総質の低下、すなわち民族の逆淘汰が現れてくる恐れがあります”

「国民の数と質を管理するため」と謳われた優生保護法。戦後初の議員立法によるこの法律は、全会一致で可決された。

宮城県の公文書館に、障害者に対する当時の考え方を示す資料が保管されていた。1960年に宮城県精神薄弱児福祉協会が作成した書類だ。

資料をひもとくと、協会の役員には宮城県知事や仙台市長、地元の大学や医師会、有力企業の代表などが名を連ねている。当時、行政も教育機関も民間企業も、こぞって障害者を社会の負担として捉え、犯罪や非行に関わりやすいと問題視していた。

協会の冊子には、優生手術を徹底して障害者を減らせば犯罪率は下がり、日本の刑務所は半分になると記されていた。
 

「素行が悪いから」と不妊手術の対象に

東京都に暮らす76歳の北三郎さん(仮名)は、仙台市の出身だ。

14歳の時、家出や暴力などの非行が原因で、仙台にあった更生施設の修養学園に入所。その後、不妊手術を受けさせられた。北さんは、手術当日のことをはっきりと記憶している。

「先生に『悪いところがあるから取る』と言われたんです。『悪い所はない』と言っても、『放っておくと悪くなるから』って。それで服を脱ぎなさいと言われ、服を脱いだら背中に注射打たれて…」

北さんは、体や精神に障害はなかった。素行が悪いという理由で、不妊手術の対象にされたのだ。

北さんは28歳で結婚。

しかし、妻と一緒に過ごしたおよそ40年の間、苦しみながらも、手術を受けたことを告白することはできなかった。妻の家族や親戚からは、『なぜ子どもができないのか』とずいぶん言われたという。

「妻が亡くなる寸前に『秘密にしていたことなんだけど…』と打ち明けたら、最後まで聞いてうなずいてくれました。そして『私がいなくなっても食事だけはちゃんと取ってよね』と言って、まもなく亡くなったんです」
 

“不幸な子どもたち”と呼ばれた障害児たち

「精神薄弱児収容施設の亀亭園では、知能の低い不幸な子どもたちをいたわるなど、多忙な日程を終わり、福島へ向かいました」

これは、1957年5月につくられた宮城県の県政ニュースのナレーションの一節。

草葉隆圓厚生大臣が仙台市内の社会福祉施設を視察したことを報じるニュースだが、当時、障害を持つ子が世の偏見にさらされ、不幸とみなされていたことがわかる。

1960年代に入ると、そうした“不幸な子どもたち”を収容するための施設が、全国各地で次々と作られた。

宮城県では「愛の十万人運動」と称して県民から寄付を募り、1960年に知的障害児の収容施設「小松島学園」を建設した。

小松島学園の職員をしていた三宅光一さんは、82歳。当時、子供たちの生活指導にあたっていた。この学園にも不妊手術を強いられた子どもたちがいたと振り返る。

「小松島学園では、今でいう知的障害を持つ子たちが生活していました。IQは50~80台が多く、全体に高かった。もっとIQの低い『白痴』『痴愚』と呼ばれたような子どもたちも、ほとんどが優生手術をしたんじゃないかな」
(※知的障害に関する不適切な表現がありますが、優生保護法施行当時の時代背景を伝えるため、そのまま掲載します)

三宅さんが回想するのは、ある女子生徒のこと。卒業後は働きたい、そして結婚もしたいと夢を語っていた彼女もまた、不妊手術を受けた一人だった。

「彼女自身が優生手術について口にしていたから、両親から直接説得されたんじゃないかな」

病院に連れて行かれた彼女は、学園に戻ってきてから1週間は泣いていたという。三宅さんはその姿に胸を痛めたが、職員という立場上、どうすることもできなかった。

「私たちは『承諾書を持って来たから、病院に連れてってちょうだい』と言われれば、そうするしかできない。国の命令ですから、逆らえなかったんです」

障害は遺伝するから、その不幸の連鎖を断ち切ろう。公共の福祉の名のもと、不妊手術は推進された。もっとも多い年には、全国で1300件以上もの手術が行われた。

宮城県では法の施行後、あわせて1406人が手術を強いられたという。

1996年に優生保護法が改正されるまで、不妊手術が行われた件数は、全国で2万4991件。各都道府県に残されている記録を確認すると、手術を受けた年齢は9歳から50代までさまざまだった。

手術が必要な理由として書かれているのは、
「誰彼の見境なく性交を行う」
「精神発達が遅れ、生理の始末もできない」
などの言葉だった。
 

不妊手術の必要性を判断していたのは専門知識のない人たち

立命館大学で生命倫理や優生思想を研究している松原洋子教授は、当時の問題点をこう解説する。

「優生学的に問題となっている事柄が遺伝するかのどうか、きちんと医学的に精査できる人が、不妊手術の必要性を判定していたわけではなかった。手術を申請した医師にも専門家ではない人がいましたし、家系調査も自治体によっては保健所の人が行っていたりした」

また当時は、健常者に対して不妊手術を施すことが許可されてもいた。

「配偶者に遺伝性精神疾患があった場合、四親等の中に遺伝性精神疾患があった場合など、本人は健常であっても不妊手術をしていいとされていたりもしました。専門的に言えば、相当に問題がある。そういう方法でしかやりようのない構造だった」

強制不妊手術の可否は、各都道府県に置かれた優生保護審査会が決定していた。審査委員を構成したのは、地元の医師会会長、県の保健部長、裁判官や検事、県議会議員などだ。

弁護士の泉山禎治さんは、三重県家庭裁判所の判事だったころに審査委員を経験している。現在83歳の泉山さんは、30代の青年だった。

当時、不妊手術の申請は精神科医が行っていた。遺伝性の疾患や知的障害があると診断した場合、精神科医はその患者の不妊治療を審査会に申請。審査会が必要性を認めると、本人の同意がなくても手術ができる仕組みだった。

優生保護審査会の議事録には、「子どもを産んだとして本人や子どもの周辺の不幸は必然である」という泉山さんの発言が残っている。しかし、泉山さんは「具体的なことは記憶がない」と話す。

「当時どうだったか推測するしかないけど、遺伝性ということにこだわりがあったんじゃないかな。遺伝性だから、子どもができれば、親と同様に精神的に問題があるはず。不幸になるのは目に見えているんだから、優生保護法に基づいて子どもができないようにしましょうというのが、当時の考え方だったんですよね」


後編では、2018年以降、被害者が声を上げ始めてから被害者救済法成立までの歩みを追う。


(※年齢や肩書は2019年5月放送当時のものです。)