2017年12月13日、宜野湾市の普天間第二小学校に米軍ヘリから窓枠が落下して4年。

学校側と同様に無力感に苛まれている1人が、事故当時にPTA会長をしていた徳村篤志さん。保護者の代表として、子どもたちの安全を守るため防衛局に要請するなど奔走してきたが、危険性は4年経った今も何も変わらないと訴える。

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
当時は恐ろしいという思いが一番あって。子供たちの安心安全をどうすれば取り戻せるかなと、色々考えて行動していたんですけど

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事故当日の様子を次のように振り返った。

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
10時過ぎくらいだったと思うんですけど、学校の事務の方から電話がありまして。ヘリから何かが落ちましたっていうことで、一報が入って。仕事中だったんですけど、少し抜けて学校に寄ったらもう、警察の方が規制線を張って。僕らでも簡単に入れないという状況があった

運動場では体育の授業 一歩間違えれば大惨事

2017年12月13日の午前10時すぎ、普天間基地を飛び立った3機の米軍ヘリ。

その直後、何かがひらひらと落ちていく。普天間第二小学校の運動場に落下してきたのは、重さ8キロのヘリの窓だった。

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
正直信じられないですよね。やっぱり僕らも慣れすぎて…。隣にこういう基地があって、そういうことが起こりうる状況であったにもかかわらず、やはりちょっと驚きというか

当時、グラウンドでは2年生と4年生の児童約50人が体育の授業を受けていて、一歩間違えれば大惨事の事態に学校は騒然とした。

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
万が一、その場に僕の子供じゃないにしても、誰か児童がいたらって考えると恐ろしいですね

避難用シェルター設置も…保護者の不安は晴れず

事故後、校内には監視員が配置され、子どもたちは米軍機が上空や学校近くを飛行するたび、建物に逃げる「普通の学校生活がおくれない」異常な状態が続いた。事故から1年間での避難回数は700回近くにものぼった。

「子供たちをどう守るか」。徳村さんはPTA会長として保護者の意見を集め、沖縄防衛局に直接要請するなど奔走した。

普天間第二小学校PTA会長 徳村篤志さん(当時):
(米軍の)最大限可能な限り飛ばないという回答では、学校上空を飛ぶ場合もあるのではないかと考えられ、「もう安全である」と言ってすぐに運動場で子供たちを活動させるわけにはいかないのではないか

徳村さんら保護者の要請を受けて設置された、避難用シェルター。上空をヘリが飛行した際に児童自ら安全を守るため、シェルターに避難する方針をとっている。

子どもたちが自分で身を守らなくてはならない、そんな学校があるのか。徳村さんら保護者の本当の気持ちは、アメリカ軍機の飛行停止だった。

避難用シェルター
避難用シェルター

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
保護者の皆さんも飛行をやめてほしいと思ってはいるんですけど、なかなか思いが伝わらない部分もあるので。悲しいというか無力感というか、僕らがどれだけ要請して話しても、進まないというのが残念なところです

取材中にも轟音を響かせながら上空を飛び回るアメリカ軍機。生まれた頃から宜野湾市に住む徳村さんも、「日常が異常だった」と気付いたのは2017年のこの事故がきっかけだった。

後を絶たぬ軍用機の事故「危機感を忘れないで」

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
毎日、宜野湾市で遊んでいて、その上空をずっとヘリは飛んでいたので麻痺しているというか。何も感じなかったのが、窓枠落下が起きて恐怖というか、基地がこんなに身近にある怖い地域だなと思いました。やっぱりこれを見ると異常です

11月にはオスプレイから水筒を落下させる事故も発生するなど、軍用機の事故は後を経たず、4年前と何ら状況は変わっていないと訴えている。

事故当時のPTA会長 徳村篤志さん:
子供たちの環境はあまり変わっていないな、というのが率直な感想ですね。4年経つと子供たちも皆、通常通りに生活を始めて。大人も含めて恐怖心が薄らいできているという部分もあると思うので、この事故を振り返って危機感を持ち、毎日毎日考えないといけないなと思います

事故を風化させまいと12月13日、普天間第二小学校では朝から全校集会が開かれ、校長が「運動場の風景は変わっておらず、自分の力のなさを感じる」と子どもたちに訴えていた。

普天間第二小学校 知念克治校長:
この地域で生まれ育った、未来に生きる君たち大切な人の命を守るには、どうすれば良いのか

その訴えをかき消すかのような轟音で、米軍機は今日も飛び続けている。

(沖縄テレビ)

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