宮崎県高千穂町土呂久。山深いこの里は、鉱山で栄えた集落だ。

しかし約100年前、亜ヒ酸の生産が鉱山で始まると、賑わいの陰で猛毒のヒ素が住民の体を蝕んだ。

日本が“公害列島”と呼ばれた昭和40年代。一部の住民が正当な補償を求めて裁判を起こした一方で、公害により集落の中にはひずみが生まれてしまった。

今、自然に抱かれ穏やかな姿を見せている土呂久で、一体何があったのか。

100年の記憶を紡いだ時、山で生きる優しくも強い人々の姿が浮かび上がった。

小さな集落の鉱山で始まった猛毒の生産

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熊本県と大分県に隣接する、宮崎県高千穂町土呂久。

山ひだに食い込むように広がる小さな集落には、現在30世帯約70人が暮らしている。

6月には、100年以上前から続く棚田で田植えが始まっていた。

しかし、豊かな自然に包まれ、ゆったりとした空気が漂うこの土呂久では、作物が育ちにくい時期が長く続いたという。

代々農業を営む佐藤慎市さん(取材当時67歳)は、棚田の横に立つ柿の木を指して、「この木も鉱山が操業中は実がならなかった。ちょうど、この谷を境にしてこっちは、マメ科の植物は完全にダメだった」と教えてくれた。

かつて土呂久には、16世紀末から始まったと言われる鉱山が、集落の真ん中にあった。

 江戸時代には、銀を産出していた土呂久鉱山では、約100年前の1920年(大正9年)から猛毒の亜ヒ酸の生産が始まった。

当時アメリカでは殺虫剤としての需要が高まっていて、日本は亜ヒ酸の輸出国の一つだった。

1948年から10年間鉱石掘りを担っていた松本博則さん(取材当時88歳)は、当時を懐かしむ。

「入ったら運搬夫。慣れてきたら段々現場に出て行って、1人前になると山をひと切羽(掘削の最先端筒所)任せてもらう。毎月現金が入る。閉山前は鉱山で働いている人が120人以上いた。賑やかだったのう」

子供の頃惹かれた「白い粉」

佐藤ツル(取材当時80歳)さんは、鉱山のすぐそばで育ち、幼い頃に放置された窯の中に残る白い粉に惹かれたと話す。

「お椀を持って、鉱山に遊びに行っていた。お椀を2つ位持っていく。そしてままごとをする」

しかし友達と遊ぶ楽しい場所だった鉱山は、一夜にして恐ろしい場所となった。

「向こうの女の子は、1日私と遊んでいて、明くる日死んだ。私は怒られた。あそこに行ったからあの子は死んだと」

ツルさんの体にも異変が起こってしまった。湿疹が出て、顔はかぶれ口が開かず、食事もできなかったという。

小学校5年生の頃には黄疸も出て、肝臓も悪く、長くは生きられないかもしれないと言われるほどの状況になってしまった。

幼いツルさんたちが遊んだ、つやのある真っ白い粉は、猛毒のヒ素を含む亜ヒ酸だった。

「亜ヒ焼き」による煙害に苦しむ住人

亜ヒ酸は、鉱石を砕き水で練り、団子状にしたものを窯で焼いて作られていた。

“亜ヒ焼き”と呼ばれる方法だ。

亜ヒ酸を含んだ煙は集落を覆い、鉱石の焼きがらは目の前の土呂久川や窯の周辺に捨てられた。

ツルさんの夫・富喜男さん(取材当時84歳)は子供の頃、煙害で死んだ牛や馬を大人たちが山奥に埋めていたことを覚えている。

その場所は牛馬墓地と呼ばれ、急な斜面を登った先にひっそりと広がっていた。

富喜男さんは、行政から言われたことを、鮮明に覚えている。

「死んだ牛をここまで持って上がる。みんな煙で死ぬ。行政が『百姓がつぶれても問題ない』と言っていた。企業優先。市町村がそうだった」

当時の土呂久の自治組織「和合会」の議事録には、亜ヒ焼きによる煙害が繰り返し記録されている。

更に和合会は鉱山だけでなく、行政にも窯の改善や廃止を申し入れたものの聞き入れられることはなかった。

住民の悲痛な声は届かなかった一方で、輸入される安価な鉱石に太刀打ちできず、出水事故で坑道が水没したこともあり、1962年、土呂久鉱山は長い歴史に幕を下ろした。

閉山から4年後の1966年。齋藤正健さん(取材当時76歳)は、22歳で初任地として土呂久の子供たちも通う、岩戸小学校に赴任した。

受け持ったクラスの中に、気がかりな児童がいたと振り返る。

「『胸が痛い、胸が痛い』と言ってきて、僕はもう心配で家までバイクに乗せて届けた。保健室にも何度も行きました。そういう中で、保健の先生も、『土呂久の子供たちは全体的に病弱な子が多いよね』ってそういう話があったから。なぜだろうって」

新任教師の齋藤さんは、素朴な疑問を抱き、土呂久を訪ねた。

そこで気になったのは、卵が腐ったような異臭だった。

齊籐さんは「なにかこれと関係があるんじゃないか」と考え、同僚の先生たちを巻き込んで、調査を始めたという。

調査の中で、鉱山の近くに住む女性に聞き取りをした音源が残っている。

「『煙の立つ日には今日は外に出るな』と両親に言われましたね。子供が出たらのどに悪い。目に悪い。喜右衛門さん一家が、次から次へと7、8人の家族全員が亡くなった。一家全滅です」

集落の喜右衛門さんの家には、上り風に乗って、煙が直接届いていたのだ。

“死者100人、平均寿命39歳”が衝撃を与えるも…

13歳で気管支カタルを患い、喉の皮が破れて血が出る。

22歳で重い気管支炎を患う。

齋藤さんが1971年11月に発表した調査の内容は、衝撃的な内容だった。

過去50年間で死亡した住民は約100人、平均寿命は39歳。今なお、70人以上がさまざまな病気に苦しんでいる。

この事実を、新聞やテレビは大きく報じ、山あいの集落に埋もれていた公害問題が、大きく動き出した。

昭和40年代、日本は公害列島と呼ばれ、環境問題が深刻化していた時期だ。

隣県の熊本県では水俣病が公害病に認定され、加害者は加害企業に対し、損害賠償を請求する裁判を起こしていた。

国民の目が環境問題に向けられたこの時代。宮崎県の山あいで一教師が告発した公害も、大きな注目を集めるようになっていた。

告発の翌年、1972年には宮崎県の黒木博知事(当時)が現地を訪問。

県は土呂久鉱山から排出された有害物質によって、7人の慢性ヒ素中毒患者が認められたと発表した。

そこで県が進めたのは、患者と鉱業権を所有する住友金属鉱山との、補償を巡る斡旋だった。

補償は皮膚と鼻に現れた症状に限定されていて、患者が訴える全身の健康被害に比べ、極めて狭いもの。

しかもこの斡旋には、将来にわたり一切の請求をしないという条件がついていた。

 補償額も平均で310万円と、水俣病の認定患者が裁判で勝ち取った1600万円余りの賠償金に比べ、著しく低かった。

公害の苦しみが理解されない悔しさは、全身の健康被害があった患者の心に大きなしこりとなって残った。

全身の補償を求めて裁判へ

農家の慎市さんの父と叔母も、ヒ素による病に長年苦しめられてきた。

慎市さんが住む土呂久の南地区は、鉱山より低い位置にあり、1971年まで土呂久川から引いた用水を飲み水として使っていた。

一家は、鉱山の煙と汚染された水という二重の被害に遭っていたのだ。

慎市さんの父親も、小さい時から内臓が弱く、胃の手術もしている。

仕事をしていた母親の代わりに面倒を見てくれたのは、叔母の佐藤アヤさんだ。

そのアヤさんは、公害が明るみになった頃には、ほとんど寝たきりとなっていた。

「3年位歩くこともできないです。ほとんど寝たきりで、仕事も何もできないで、医者にも行ってないものですから、もう寝ているだけですよ。行こうと思っても身体が痛くて行けないんです。動くことが痛いんです」

10代のころから呼吸器や消化器の病に苦しみ、さらには手足の運動障害にも侵されたアヤさん。胸の内を短歌に詠み続けていた。

来世に
我も嫁ぎて妻となり
母ともなりて
みたしと思う

1975年12月、慢性ヒ素中毒症の患者5人と、亡くなった患者1人の家族が、住友金属鉱山を相手に裁判を起こした。

原告が求めたのは、全身の健康被害への補償だ。

アヤさんも「皮膚や鼻だけに絞ったものでは、余りに不公平だから。内臓が悪い人が一番今までも苦しい目にあっているから、内臓を一番に考えてほしいとみんな言うのです」と、病床から裁判に参加した。

慎市さんは、父・健蔵さんの遺族原告となり、アヤさんとともに裁判に臨んだ。

原告には、土呂久を離れた元鉱山労働者なども加わり、最終的に41人に増えていた。

住民の間に生まれた見えない歪み

提訴から8年以上が過ぎた1984年3月28日。

請求額の7割を認める勝訴判決が下されたが、住友金属鉱山は控訴。

原告と支援者は、社長との直接交渉と控訴取り下げを求め、21日間本社ビル前に座り込み、新聞やテレビでも大々的に取り上げられた。

しかしこの裁判、参加したのは土呂久45世帯のうち、9世帯だけだった。

現在の公民館長を務める佐藤元生さん(取材当時64歳)は、「風評被害があった。土呂久から嫁をもらうな、やるなとか。その苦しみは当事者じゃないと分からない。絶対にわからない…」と厳しい表情を見せる。

元生さんの家は、代々土呂久で畜産を営んできた。

元生さんが住む土呂久の畑中地区は、鉱山から山を隔てた急斜面に家々が点在し、それぞれで水源をもっていたため、ヒ素による被害は大きくなかった。

「訴訟まで行った人たちは、住民の軒数から行ったら少数派」と話すように、集落の中でも、被害の程度には差があったのだ。

しかしマスコミに大きく取り上げられた“土呂久”という地名、そして“公害”という言葉は大きく広がってしまい、元生さんの父親が市場に野菜を出しても、競り落とす人はいなかった。

「裁判がテレビやら報道で出る。『おまえのとこも裁判に行ってるのか』とか言われる。いやだった」

公害は、住民の間に見えない歪みも生み出してしまったのだ。

和解という苦渋の決断

裁判の原告は、「裁判をしたらコメが売れない」「農作物が売れない」「嫁の来手がない」などと言って反対されることもあったが、それを押し通して裁判をしたという。

1990年10月、土呂久公害訴訟は提訴から15年近く経って、ようやく最高裁判所で和解が成立。この時までに原告41人のうち23人が亡くなった。

これは命があるうちに解決をと考える高齢となった住民の、苦渋の決断だった。

原告の一人は当時、「過ぎ去ってしまえば何もないようだが、15年という年月は本当に長かった」と語っている。

公害を直接知らない世代

土呂久には公害を直接知らない世代が増えてきた。

肥育農家の佐藤孝輔さん(取材当時39歳)は、15年前、結婚を機に隣町から土呂久に移り住み、一家で140頭ほどの牛を育てている。

孝輔さんは、公害について少し聞いたことがあったものの、来るまでは全く知らなかったという。

様々な歴史を経た今、水はきれいで空気も澄んでいて、牛を養うのはもってこいの場所だと感じていると語る。

2カ月に1度開かれる子牛の競りでは、もちろん土呂久の牛も競りにかけられる。

土呂久の畜産農家は頻繁に集まり情報交換を重ねている。その成果が少しずつ現れ、町の品評会で初優勝するまでになった。

土呂久牛の良さを更に伝えていきたいと考える孝輔さん。

県は、2017年から土呂久の公害をモデルに環境教育を進めていて、2019年3月には、土呂久の歴史を紹介する案内板を設置した。

集落を代表して案内板の設置に立ち合った公民館長の元生さんは、ヒ素による公害だけでなく、1600年ごろから続く鉱山の歴史も伝えるよう、注文をつけたと話す。

この環境教育が始まってから、学生が土呂久を訪れる機会が増えたそうだ。

佐藤ツルさんは話す。

「少しでも土呂久のことに関心を持って来てくれるんだから、ありがたいことだと思う。大学生とかが来たときもね、『自然を壊すような事業は入れたらいかん』ということだけは話して聞かせようと。『自然を壊す事業は絶対いけないよ』って」

かつて猛毒の煙に包まれた鉱山には、一面の桜が咲いている。

土呂久が歩んだ光と影の歴史。長い戦いを経た今、自然と共に生きる和やかな暮らしがここにはある。

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『山峡に咲く~土呂久100年の記憶~』)