東日本大震災から10年。震災で傷ついた人々の心を、沖縄の芸能「エイサー」で勇気づけようと奔走した1人の男性がいる。
被災地との交流は今も続いていて、男性は「第2のふるさと」と東北の人々に思いを寄せている。

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ボランティアで石巻訪れ…震災直後の光景に衝撃

東恩納寛武さん:
感覚的には早いなって感じですね。もうあっという間だなというか

沖縄・今帰仁村湧川地区に住む東恩納寛武さんは、10年前の東日本大震災の発生直後、津波などで甚大な被害を受けた宮城・石巻市を訪れ、ボランティアに参加した。

東恩納寛武さん。震災直後に宮城・石巻市でボランティアに参加
東恩納寛武さん。震災直後に宮城・石巻市でボランティアに参加

東恩納寛武さん:
現地を一番最初に見た時は、言葉が出なかったというか。建物が流されて海の中にあったりとか、大きな船が工場の上に逆さまに乗っていたりとか。衝撃で10年たっても忘れられないというか

津波などで甚大な被害を受けた宮城・石巻市
津波などで甚大な被害を受けた宮城・石巻市

10年が経過する今も、東恩納さんの脳裏には、震災直後の石巻市の光景が焼き付いている。
ボランティア活動中には、深く傷ついた被災者と接する機会もあった。

東恩納寛武さん:
(仮設住宅に)荷物を運ぶ人手が足りないということで、引っ越しの手伝いをしていたんですけど、僕が「大きい部屋当たって良かったですね」っていうことを言ったら、その人(避難者)も「大切な人も、物も、思い出も流されてしまったから、こんな大きな部屋は必要ないんだけどね」って泣かれてしまって

大学卒業後に石巻移住を決意…エイサー実現のため奔走

被災者の壮絶な経験を前に自分の無力さを感じ、石巻の人々を少しでも勇気づけることができないか、自分に何ができるのか考える日々が続いた。

東恩納寛武さん:
自分はまだ大学卒業したてで社会経験もなかったので、「エイサーしかないな」と

被災した人たちにエイサーを見てもらって、少しでも勇気づけたいと考えた東恩納さんは、石巻への移住を決意した。
漁師の仕事に就きながら、現地でエイサーを実現させるために奔走した。

東恩納寛武さん:
沖縄の企業とか東京の企業とかに頭を下げて、「ちょっと支援してください」というような形でずっと回っていろいろ支援していただいて、2013年にやっとできたという感じでしたね

演舞の披露が実現したのは、震災から約2年半後の2013年8月。
「石巻の人々をエイサーで少しでも元気にしたい」。東恩納さんの思いが届いた瞬間だった。

東恩納寛武さん:
いや~泣きましたね。沖縄のエイサーが出るのも初めてなので、そこでやっぱり見てもらって喜んでくれて。カチャーシー(祝いの舞)も踊ってくれてたのを、すごく覚えていますね

エイサーがつなぐ絆…後に続く移住者も

東恩納さんは、これをきっかけに「エイサー石巻」という団体を立ち上げ、現地でも多くの人がエイサーに参加するようになった。
さらに、東恩納さんのあとに続くように、石巻に移住した地元出身者の女性もいる。

石巻に移住した沖縄出身・嘉陽愛華さん:
寛武さんが作ってくれたエイサーに参加して、もっと地元(石巻)の人にエイサーを教えたいというのがあったので

東恩納さんは3年前に沖縄に戻ったが、嘉陽さんの存在もあり、今もエイサーを通じて、今帰仁村湧川と石巻の住民の交流は続いている。

東恩納寛武さん:
もう第2の故郷ですね。家族のように付き合わせてもらっています

東恩納さんは、この交流を通じて伝えたい思いがある。

東恩納寛武さん:
エイサーをやることで、石巻と湧川の関係が続けば素敵だなと思うんですけど、文化をつないでいきたいという考えよりは、これをきっかけに今一度“自分の命の大切さ”というか、そういうのを伝えていきたい

被災者と接し、被災地を自分の目で見てきたからこそ、東恩納さんに芽生えた思い。
沖縄で旧盆の時期に踊るエイサーは、死者の魂を鎮める念仏踊りが起源と言われている。
今夏も、石巻にはエイサーの太鼓の音が鳴り響く。

東恩納寛武さん:
僕自身、向こうで「おっと(お父さん)」「おっか(お母さん)」と呼んでいる存在がいっぱいいるので、(石巻の人たちとの)関係をずっと続けていきたいなと思っています

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ
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