一時帰国中の故郷で、東日本大震災に襲われた

鵜浦真紗子さん:
「夫とはとにかく行動を一緒にすると決めています。主婦だから本来は家で待っていればいいんですけどね、身内がどこにいるか把握するっていうのはすごく重要なんですよ」

アメリカ・ロサンゼルスに住む鵜浦真紗子(うのうら・まさこ)さん(66)。

建築家の夫が事務所に出勤する時は出来るだけ一緒に行くようにしている。他のスタッフは全員テレワーク中のため、夫婦2人きりのがらんとしたオフィスで1日を過ごす。岩手県大船渡市で育った鵜浦さん。結婚を機にロサンゼルスに移住して15年になる。10年前のあの日はちょうど里帰り中で、母の生家がある宮城県気仙沼市を訪れていた。そこで、東日本大震災に襲われる。

鵜浦真紗子さん
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鵜浦真紗子さん:
「叔母と2人で電車に乗って気仙沼の駅に着いたのが午後2時24分頃でした。車で司法書士事務所へ向かっていた所で道路が波を打って揺れ始めたんです。車を停めて外に出たけど立てる状況じゃなく、地面に這いつくばっていました。やっと揺れが収まり、頭が真っ白だったんですが司法書士事務所で午後3時に約束をしていたので行くだけ行こうと向かいました。するとそこで『大津波が来るから逃げろ!』と言われたんです」

黒い波が迫る中、偶然の出会いが生死を分ける

そこは気仙沼港の目の前だった。車に飛び乗り逃げようとするが、片側一車線の道路は渋滞し、なかなか進まない。いてもたってもいられず「とにかく車から出よう!」と近くに車を停めて徒歩で逃げることにした。車に留まる人たちに「車から降りて!」と呼び掛けるが、寒さで誰もが窓を閉めていて届かない。中には車内から笑い返す人もいたという。

鵜浦真紗子さん:
「走り始めた途端、反対側から若い男性がこちらへ走って来ました。『どこへ逃げたらいいですか!?』と聞いたら、彼は自分の携帯電話を見て『まずいです、僕に付いて来て下さい』と言って私たちを先導して海と反対側へ向かって走り始めました」

この男性と出会った偶然が、鵜浦さんたちの命を救うことになる。男性の視界には黒い波がすぐそこに迫る様子が映っていたが、鵜浦さんたちがパニックにならないよう多くは伝えず冷静に、迅速に誘導してくれた。男性は後に、たまたま非番で近くに来ていた海上保安庁の職員だったことが分かる。鵜浦さんはとにかく男性の背中を追って走り続けた。

鵜浦真紗子さん:
「私たちは2階建てアパートの外階段から屋根によじ登ろうとしたんですが、私は海水で手が滑り屋根から落ちてしまったんです。その時には波がブワーっと迫っていました。でも、たまたま浮かび上がってきた白い冷蔵庫みたいなものの上に落ち、それがそのまま浮上してなんとか屋根の上にたどり着けたんです。私は泳げないし、それがなかったらどうなっていたか・・。」

だがすぐにその屋根にも海水が到達し、鵜浦さんたちはアパートの隣にあるドラッグストアの屋根に乗り移った。そこでようやく津波からは逃れたが、救助されるまでの約28時間は「地獄絵だった」という。極寒の中、余震が続き、爆発音が響き、さらに重油の臭いが漂っていた。しかしその中で一度だけ、ロサンゼルスにいる夫と電話がつながった。

ドラッグストアの屋根から見た光景。ここで約28時間救助を待った (©LOVETONIPPONPROJECT)

「I love you」で切った30秒の電話

鵜浦真紗子さん:
「その日の午後8時くらいかな、それまでは無我夢中で携帯電話のことが頭にも浮かばなかったんです。でもふと空腹でカバンの中を探った時に携帯電話があって。つながるわけないよねと思ってかけたらなんとつながるじゃないですか。あれは本当に奇跡でしたね。電池を節約しないといけないと思ったから、会話は30秒くらいだけ。『気仙沼のドラッグストアの屋根にいるから!』って。そしたら夫は『I love you』って言って、それで電話を切ったんです。私は『あ、これ9.11(アメリカ同時多発テロ)と一緒だ』ってとっさに思ったんです。そして『こんな所で死んでたまるか』って思ったのをすごく覚えています」

鵜浦さん(右)と夫のテッドさん(左)。2人はいつも行動を共にしている。

翌日の夕方、自衛隊に救助され、さらに次の日の夜になって何とか大船渡へ戻った鵜浦さん。幸い父親は無事だったが、多くの親戚が犠牲となり、しばらくは捜索や安否確認に追われた。そして4月になって花巻空港が運航を再開してようやく、夫の待つロサンゼルスへ戻ることが出来た。当時のことを夫・テッドさんはこう振り返る。

鵜浦さんの夫、テッド・トキオ・タナカさん

鵜浦さんの夫、テッド・トキオ・タナカさん:
「CNNで物凄い映像が流れているのを見ていました。真紗子がどうなったんだろうと心配で・・。日本にいる色々な友達に電話して聞いたりしていた所で彼女から電話がかかって来たんです。話したのは20~30秒。その後はまた連絡が取れなくなって。その時は地獄みたいでしたね、辛くて・・。東京の友達に電話して『ヘリコプターを借りて助けに行ってもらえないか』って相談したりしていました。忘れませんね、あの時のことは。ロサンゼルスの空港で会えた時は本当に嬉しかったですよ。一度は死んだと思ってたんですから。でもそれから1年間は大変でした。真紗子は経験を人に話せなかった。怖くてね。話し始めるまでにはずいぶん時間がかかりましたね」

流された実家の玄関前に座り込む鵜浦さん (©LOVETONIPPONPROJECT)

「ゴジラに襲われた街」 アメリカ消防隊員が見た被災地

ロサンゼルスへ戻った後、東北のための大規模な募金活動に参加した鵜浦さんは、そこで1人の消防隊員と運命的な出会いを果たす。当時、ロサンゼルス郡消防局の消防隊員だったラリー・コリンズさん(60)だ。コリンズさんは東日本大震災の発生直後、ロサンゼルス郡消防局から派遣された約70人の救助隊員の一員として鵜浦さんの故郷・大船渡市や釜石市に入り救助活動に当たっていた。彼らはそれまでハイチやネパールなど世界中の災害現場に派遣され、東北に行く直前まではニュージーランドの地震で救助活動にあたっていたエキスパートたちだが、それでも東北の被災地を見た時は言葉を失った。

元ロサンゼルス郡消防局・消防隊員 ラリー・コリンズさん:
「最初に大船渡に着いた時、信じられないほど街が破壊されているのを見て『この街はゴジラに襲われたのか』と衝撃を受けました。昔ゴジラ映画の中で見たような街並みがそこにあったのです。実は私は1995年の神戸の地震の時も救助活動に入っています。その時は火災やビルの倒壊を目にしたのですが、今回は津波でさらに深刻な状況でした」

被災地で活動にあたるラリー・コリンズさん(右) (コリンズさん提供)

隊員たちは瓦礫に埋もれてしまった一軒一軒を丁寧に捜索し生存者を探した。しかし捜索は困難を極め、結果的に約2週間の活動の大半は、犠牲者の遺体の収容と、行方不明者がいないことを確認していく作業となった。津波災害の脅威を目の当たりにする中で、コリンズさんは自分たちの住むカリフォルニア州も他人事ではないと危機感を募らせたという。

経験豊富な救助隊も言葉を失った被災地。捜索は困難を極めた  (コリンズさん提供)

元ロサンゼルス郡消防局・消防隊員 ラリー・コリンズさん:
「カリフォルニア州も地震が多い場所で、私は当時、津波の防災計画を作る仕事にも関わっていました。しかし、昔から多くの津波を経験し様々な準備をしていた日本でもあれだけの被害が出たことにショックを受けました。津波の避難所になっていた場所が流されてしまったのも目にしました。次に起こるかもしれない災害で1人でも多くの命を救うために、これを教訓としなければならないと強く感じたのです」

「日本の教訓を生かし1人でも多くの命を救いたい」と話すコリンズさん

鵜浦真紗子さん:
「募金活動の会場でコリンズさんと出会って、東北に行ってくれたという話を聞いた時『自分も何かしなくちゃ!』と思いました。消防の皆さんにあれだけお世話になって、今度は私たちがアメリカの人たちに何が出来るのかと考えた時に、だったら防災について、備えることの大切さについて伝えることが一番重要なんじゃないかと。それなら『アメリカで追悼集会をやりたい』と思ったんです」

コリンズさんとの出会いが鵜浦さんの背中を押した (©LOVETONIPPONPROJECT)

ロサンゼルスから祈りを「Love to Nippon」

当初はあまり自らの経験を語れなかったという鵜浦さんだが「震災の話を聞かせてほしい」という周囲の声も後押しとなり、アメリカでの追悼集会を計画。ロサンゼルスのテレビ局が鵜浦さんの案内で東北の被災地を取材し放送したことも反響を呼び、追悼集会開催へ賛同の和が広がっていった。そして震災から1年となる2012年3月、ロサンゼルス中心部にある警察本部前で、追悼集会「Love to Nippon」が開かれた。式典には日系人もアメリカ人も、コリンズさんたち消防関係者や警察関係者も参加して、被災地へ向かって祈りを捧げた。さらに、防災意識を高めるためのシンポジウムも行われた。

ロサンゼルス中心部で開かれた追悼集会「Love to Nippon」 LOVETONIPPONPROJECT)

それから10年。追悼集会「Love to Nippon」は毎年3月に継続して開かれ、参加者は多い年には約700人にのぼった。2020年は新型コロナウイルスの影響で初めて中止となったが、震災から10年となる2021年はオンラインでのイベントを開き、被災地へ思いを届けることにしている。

シンポジウムではコリンズさんと共に「備えること」の大切さを訴えている  LOVETONIPPONPROJECT)

鵜浦真紗子さん:
「10年間続けてこられたのは見えないパワーとしか思えないんですよね。亡くなった人たちが『自分たちの代わりにやってちょうだいね』って言ってるんだろうなって。新型コロナがあったこの1年間は特に、コロナも自然災害も同じじゃないかなってすごく思いました。『まさかこんなことになるとは』と言ってたくさんの方が亡くなっています。次はきっとカリフォルニア州でも大きな災害が起こると思いますし、その時に後悔しないようにしっかり備えをしていかないといけないんです」

次の10年、20年に向けて、鵜浦さんはこれからも追悼集会を続けていくつもりだ。

鵜浦真紗子さん:
「アメリカでは同時多発テロの“9.11”が特別な日として認知されています。それと同じように、“3.11”が特別な日として、防災訓練や防災学習をする日になってくれることを願っています」

(©LOVETONIPPONPROJECT)

ロサンゼルスでの3.11追悼集会オンラインイベント
「Love to Nippon 2021」http://lovetonippon.org/ 
※日本時間3月11日午前10時から。事前登録が必用。

【執筆:FNNロサンゼルス支局長 益野智行】