かつての樺太での暮らしぶり
広島市に住む畝義幸さん(79)。3歳の時に高熱で聴力を失った。
ーーあなたの生まれた場所はどこですか?
畝義幸さん:
樺太です。寒いところです。雪がこんなに積もります。

ーー今でも故郷のことを思い出しますか?
畝義幸さん:
はい。もちろんです。サケが美味しくて卵を取り出して食べました。美味しかったです。
一家11人で樺太、現在のロシア・サハリンで生活していた畝さん。終戦から約2年後、8歳の時に集団引き揚げで日本に帰ってきた。
当時は手話もわからず、健常者だった親の口の形を見てかろうじて意思疎通ができる程度だったという。

ーー日本に帰る理由は親から説明がありましたか?
畝義幸さん:
ありません。ただついていくだけでした。ソ連に全部取られてそのまま帰ってきた。苦しい生活だった。

北海道の最北端宗谷岬の北。約43キロに位置するサハリン。かっての樺太は日露戦争で戦勝国となった日本が1905年にポーツマス条約により、北緯50度より南を領土にした。多い時には南樺太に約40万人が暮らしていて、盲唖学校もあった。

父親がこの学校で学んでいたという女性に本土と変わらない街の様子を聞いた。
川和早苗さん:
父は祖父母と呉服屋を営んでいた。隣は魚屋や八百屋があった。その隣は薬局。店がたくさんあった。
集団引き上げが行われたが帰国できない日本人もいた
しかし、第2次世界大戦での敗戦で南樺太を失い集団引き揚げが行われたが、帰国できなかった日本人も数多くいた。
篠田 吉央アナウンサー:
東京の日本サハリン協会です。サハリンに残留する日本人の帰国支援を行っています。
日本サハリン協会やサハリン日本人会によると現在、サハリンにいる残留日本人は少なくとも約70人だが、これ以外にも日本人と思われる人もいる。

ーーこの男性はどういった方なんですか?
日本サハリン協会斎藤弘美会長:
彼はサハリンに残されたろう者のヒラヌマ・ニコライさん。
ロシア国籍のヒラヌマ・ニコライさん(75)…聴覚障害があるサハリン在住の男性だ。

斎藤弘美会長:
ろう者の場合は家族とも周囲の人ともコミュニケーションが取れないので自分が置かれている状況もわからないし、周りがどう動いているのかも知らない。本当に狭い世界でやっと生きている。

本人の証言によるとこの男性は樺太の内幌に生まれ、父親は3歳の時に母親は13歳の時に亡くなった。
母親が亡くなる前に自宅でヒラヌマ姓で両親の名前が書かれた書類を見つけたが、当時、それを直接母親に確認することはできなかった。以来、自分は日本人だと信じ、ヒラヌマ姓を名乗ってきたが証明する記録は残っていない。

UPTAIN 高波美鈴理事長:
日本政府が残留日本人を探して呼びかけていたが、ヒラヌマさんは耳が聞こえないから返答しないでいたら立ち去ったことが何回かあった。あとであれが支援の呼びかけだったのがわかった。
こう語るのは国際手話の普及に取り組むNPO法人UPTAIN(アップティン)の高波美鈴理事長。2018年にヒラヌマさんの存在を初めて確認したのが高波さんで現在、ヒラヌマさんの一時帰国を実現しようと国の内外に寄付を呼びかけている。
UPTAIN 高波美鈴理事長:
自分がどこで生まれたかもわからないまま自分が何者なのかもあいまいになっている。戦争は終わったと言うが、戦争はまだ終わっていません。まだ見えない傷を残したままの人が沢山いる。

現在、広島市に住む樺太出身の畝義幸さんは2005年に終戦以来、初めてサハリンを訪問したが、故郷の面影はなかったという。

畝義幸さん:
昔とは違っていて懐かしさはなく寂しい。樺太にろう者がいること、日本人がいるのを今の人にも知って欲しい。
ヒラヌマさんの一時帰国が実現した際には、畝さんは会う予定にしている。
2人の面会は、戦争に翻弄された知られざる聴覚障害者の現実を確かめ合う場になるはずだ。
(岡山放送)
