ギリギリの連続だった“救出ミッション”

未だ収束が見えない新型コロナウイルスの世界的流行。中国当局が初めて感染者の存在を明らかにしてからまもなく1年となる。12月20日フジテレビ系(関東と一部の地域)「報道2020総括SP知られざる作戦 武漢脱出緊迫の舞台裏」では、FNNが独自入手した数百点の映像や写真とともに、ロックダウンされた武漢に取り残された日本人の救出ミッションとその舞台裏をお伝えした。

武漢の様子がわからないまま北京からミニバスで現地に向かった駐中国日本大使館の8人の外交官と2人の中国人ドライバー、チャーター機運航や現地日本人の把握に向けて奔走した政府関係者、異例づくめの中でチャーター便を5回に渡って飛ばした全日空職員らの奮闘…。

交通手段がない中、8人の大使館員らはミニバスで17時間かけ北京から武漢へ向かった
交通手段がない中、8人の大使館員らはミニバスで17時間かけ北京から武漢へ向かった
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取材の過程で見えてきたのはこのほかにも様々な人たちがそれぞれの立場で尽力し、助け合い、ギリギリの中で828人の救出が実現したということだった。

そこにあったのは関係者が共通の目的に向かって一丸となって取り組む日本ならではのきめ細かさや、チームワークであり、プロフェッショナリズムだった。

ロックダウン初日に作られた300人のチャットグループ

2020年1月23日に突然実行された武漢のロックダウン。武漢在住の日本人にとっても寝耳に水だった。ロックダウン直前に慌てて飛行機や鉄道に駆け込み、間一髪脱出した人もいたが、ほとんどの人は武漢から出るのを諦め、そのまま残った。しかし、一体何人の日本人が取り残され、帰国を希望しているのか、この時点では日本政府もほとんど把握できていなかった。

23日午前6時頃、休暇のため日本にいたジェトロ(日本貿易振興機構)武漢事務所の佐伯岳彦所長の元に北京の日本大使館から電話が入った。武漢の日本人の様子をたずねる内容だったが、当時は春節休みで一時帰国している人や、逆に出張等で武漢を訪れている人も大勢おり、ジェトロでも現地日本人の状況を正確に把握する術はなかった。

ジェトロ(日本貿易振興機構)武漢事務所の佐伯岳彦所長 武漢在住日本人有志とともに情報収集に奔走した
ジェトロ(日本貿易振興機構)武漢事務所の佐伯岳彦所長 武漢在住日本人有志とともに情報収集に奔走した

佐伯氏は武漢日本人社会で最も大きなグループである関西人会代表と連絡を取り、中国版ライン=ウィチャットの関西人会グループに、横浜人会、東海会などの県人会や、陸上、サッカー、野球などの同好会を次々と加えることで、グループの人数を増やしていった。

すると午前7時の段階では80人だったメンバーが、午後18時の時点では140人を超え、23時には300人を超えた。佐伯氏は「春節前で多くの人が日本に帰っていると思ったが、1日だけで300人の名前が挙がったのは驚きだったし、早く対応しないといけないと焦りも感じた」と振り返る。このグループチャット内で日本人の情報を共有し、商工会ら有志メンバーらがその情報を元にリスト作りを始めていた。作業はほとんどチャットを通じて遠隔で行われた。

佐伯氏を含む武漢日本商工会の幹部らは適宜日本大使館と連絡を取り、有志で作成したリストを元に、救出を要請した。当初の要請では大使館にバスを手配してもらい、湖北省外の都市に退避するなどの案も挙がっていたが、その後数日で封鎖が武漢の周辺都市にも広がっていったため、事実上飛行機が唯一の脱出の手段となった。

「詳細リスト」「集合訓練」も…現地日本人が作っていた“退避プラン”

この時点では日本からの航空機の派遣は日中政府間で協議が続いており、まだ決まっていなかった。しかし、調整が進んでいるという大使館からの情報を受け、実は航空機派遣が決まる前から、現地日本人の有志によって空港までいかに速やかに帰国希望者を運ぶかという検討が始められていたのだ。

ところがロックダウンされた武漢では大使館ですらもバスの手配が出来ずにいた。そこでジェトロの佐伯氏は、かねてから付き合いがあり、武漢で自動車ソフトウェアの会社を経営する朱敦尭(しゅ・とんぎょう)さんに相談した。朱さんは日本留学の経験があり、日本語が堪能だが、車両の手配は本業ではない。しかし、すぐに自らのツテを使って8台の大型バスを手配してくれた。救出ミッションに不可欠な「空港への足」は、朱さんのように日本人のために一肌脱いでくれた中国人の協力なくしては実現しえなかったのだ。

バス手配に尽力した朱敦尭さん(右) 後に日本大使館から感謝状を贈られた
バス手配に尽力した朱敦尭さん(右) 後に日本大使館から感謝状を贈られた

大学で地理学を学び地図が得意なジェトロ片小田廣大副所長は、現地日本人有志と共にまとめた日本人の所在リストを元に、居住地から歩いて集合できるホテルなどの集合ポイントやバスルートの案を地図に落とし込んでいった。

以下がその時作られた資料の一部だ。集合場所のホテルや、各地点での乗車人数、バスの車両番号、運転手の携帯番号、各拠点の代表者名、集合場所の詳細地図などが準備された。大使館のチームが武漢に到着する前、ロックダウンからわずか2~3日の間に現地日本人の有志らによって詳細な資料が作られていたのだ。これ以外にも詳細なリストなどが、エクセルなどのファイルをチャット上でやりとりしながら、作られていった。

ロックダウンの数日後には武漢在住日本人によって退避に向けた車両プランなど詳細資料が作られていた
ロックダウンの数日後には武漢在住日本人によって退避に向けた車両プランなど詳細資料が作られていた

また、各集合場所には、集合の際、漏れがないよう確認してもらうため、点呼係を指定した。集合グループによっては、チャーター便の運航が決まる前から、「いざという時、速やかに集まれるよう」集合訓練なども行っていたという。このように武漢在住の日本人も受け身で救出を待つのではなく、それぞれが能動的に準備を重ねていたのだ。

27日早朝に大使館の救出チームが武漢に到着した際、日本人のリストは536人にまで増えていた。数日前までは見当すらつかなかった日本人滞在者の人数だったが、この資料がベースとなって、迅速に帰国希望者の情報を把握することが可能になった。大使館チームを率い現地入りした植野篤志特命全権公使(当時)は、「事前に準備してくれていた資料が非常に助かった」と振り返っている。

人が消えた武漢の歩行者天国 普段は夜でも賑わっている
人が消えた武漢の歩行者天国 普段は夜でも賑わっている

際立った日本の“ロジ力”

この頃、北京の日本大使館では、政治部が主にチャーター便の飛行許可など中国政府との折衝に当たり、領事部・経済部・広報文化部などによるチームが現地日本人との連絡や情報把握などの対応に当たっていた。北京以外の都市にある総領事館からも応援が駆けつけるなど、まさに総力体制だった。ジェトロなどが作った資料はこの大使館チームに引き継がれた。担当の大使館職員が、大使館が収集した情報と突き合わせて一人ひとりと電話やメールなどで連絡を取り、帰国希望の最終確認などが行われた。

各国が自国民救出のために武漢にチャーター機の運航を働きかける中、最初に実現したのは日本とアメリカの2か国のみだった。

空港電光掲示板にはアメリカと日本のチャーター機の情報のみ
空港電光掲示板にはアメリカと日本のチャーター機の情報のみ

イギリス、フランス、韓国など、武漢に領事館がある国よりも先に実現させた。第1便運航の際、日本は市内に約30カ所の集合場所を設けた。その後チャーター便を手配した他国と比べても恐らくここまでの対応をした国はない。武漢に領事館がある韓国ですら市内に設けた集合場所は4カ所のみ。国によっては「自力で空港まで来られるなら乗せる」という対応だった。

また、5便飛ばしたのも各国の中でも最多とみられる。他国に比べ迅速かつ大規模な救出が可能になったのは、日本政府が中国当局に強く働きかけたことや、中国側による日本への配慮という面が大きいが、それだけではない。中国政府の許可が出た後、速やかに搭乗者を確定し、集合させ、バスルートを確定し、帰国希望者を続けざまに空港に集めることが出来た“ロジ力”が決め手になったと言える。

チャーター機搭乗のため武漢空港に集合した日本人
チャーター機搭乗のため武漢空港に集合した日本人

500キロ以上離れた村にも日本人

1月下旬に3日連続で飛ばしたチャーター機1~3便の搭乗は武漢市在住の日本人に限られたが、当時ロックダウンは湖北省のほぼ全域に広がっていた。4便と5便には武漢市以外の湖北省に住む日本人や、中国籍の配偶者らの搭乗も認められたが、面積が北海道の倍以上ある湖北省では全員をバスで迎えに行くわけにいかなかった。

そこで大使館は可能な人には自力で武漢空港まで来るよう要請し、封鎖地域でも車が通れるよう湖北省政府と掛け合った。以下はFNNが独自入手した、日本政府の要請を受け湖北省政府が発行した通行許可書だ。249人の搭乗者が、湖北省各地から武漢空港までの検問を通過できるよう要請する内容が書かれている。

自力で空港に来る搭乗者に配られた文書 249人の通行に便宜を図るよう要請する内容が書かれている 日本大使館の働きかけで湖北省政府が出した
自力で空港に来る搭乗者に配られた文書 249人の通行に便宜を図るよう要請する内容が書かれている 日本大使館の働きかけで湖北省政府が出した

実際はこれに249人分のリストが添付されており、一人一人について、名前、身分証番号、運転する人の名前、携帯番号、車番などのほか、自宅から空港までの詳細なルートが書かれていた。リストは、日本大使館の職員が帰国希望者一人ひとりと電話やチャットで連絡を取り合い作成したものだ。少しでもルートが間違っていれば検問を通してもらえない恐れがあるため、地図アプリを使って、何度も確認をしながら作られたという。

しかし、実際はこの書類を持っていても各地の検問や、自宅の団地からも出してもらえないケースが相次いだ。、そのたびに大使館にSOSが入り、大使館の担当者は湖北省外事弁公室に対し、現場に連絡を入れてもらうよう働きかけた。

しかし、自力では来られない人については大使館員が迎えに行くしかなかった。これは当時の大使館職員の地図アプリのスクリーンショットである。武漢から500キロ以上離れた、片道8時間半の村に日本人が住んでいることも判明した。

武漢から500キロ以上離れた村にも日本人が住んでいたことが判明した(百度地図より)
武漢から500キロ以上離れた村にも日本人が住んでいたことが判明した(百度地図より)

バスで湖北省各地をまわってピックアップすることも検討されたが、1日で往復できないため、武漢から300キロほど西の宜昌市まで自力で来てもらい、そこから武漢空港まで送り届けるなどの対応が取られた。遠隔地へのきめ細かい出迎えも含め、2月17日、ロックダウンから25日後に、全ての邦人救出ミッションが完結した。

武漢から帰国する日本人を乗せたチャーター機
武漢から帰国する日本人を乗せたチャーター機

特別番組「武漢脱出緊迫の舞台裏」には放送後、多くの反響が寄せられ、大使館員ら当時対応に当たった関係者に対する称賛の声も多くあった。しかし、828人の救出にはそれぞれドラマがあり、番組やこの記事では伝えきれなかった大勢の関係者一人ひとりによる尽力があって初めて実現できたものだ。

あれから1年、新型コロナウイルスの感染拡大は世界的に続き、日本では感染収束に向けた道筋すら見えていない。今こそオールジャパンの力を結集して、この危機を乗り越えられるよう望む。

【執筆:FNN北京支局長 高橋宏朋】

高橋宏朋
高橋宏朋

フジテレビ政治部デスク。大学卒業後、山一証券に入社。米国債ディーラーになるも入社1年目で経営破綻。フジテレビ入社後は、社会部記者、政治部記者、ニュースJAPANプログラムディレクター、FNN北京支局長などを経て現職。